マーカーは同心・人見周介屋敷跡です。
同心・人見周介/周助(ひとみ・しゅうすけ) 四世 川柳
[文久2年絵図では同心・人見周介とあり地蔵橋近くに住む。川柳・狂歌の4世だった。
本名、人見周助。安永7(1778)年9月、江戸生れ。江戸南町奉行・筒井伊賀守二番組与力配下の物書同心。はじめ大塚に住み、文日堂礫川の折句連にあったが、文日堂の前句附復帰とともに二世川柳の門にいる。賎丸(志津丸)と称し、文化3年の「誹風柳多留」35篇に勝句8章が初見。 文日堂の推薦で評者となり,文化8年の「誹風柳多留」58篇は賎丸の単独撰で十返舎一九が序を書いている。この時の出題中に「狂句」の語が初めて見える。文政6(1823)年頃から八丁堀中之橋の自宅で月例会を催す。文政7(1824)年、3世川柳の短期引退で空位になっていた川柳号の4世を社中推薦により継ぐ。文政9(1826)年8月28日、向島・木母寺境内に「東都俳風狂句元祖 川柳翁之碑」を建立、末広会を催す。自らを俳風狂句元祖と称する。天保8(1837)年勇退、柳翁を名乗る。天保15(1844)年2月5日没。法名:祟徳院仁興普山居士。赤坂の法安寺に葬られる。 (「八丁堀周辺 歴史案内〈茅場町・兜町〉 – nifty」より)]
[四世川柳の命名した「俳風狂句」時代は、文化文政時代の江戸町人文化を背景に盛んとなり、四世川柳の門人には、九州・平戸藩6万3千石の大名・松浦静山(柳号・松山、流水、柳水)や葛飾北斎(柳号・卍)、都々逸の創始者・都々逸坊扇歌、「偐紫田舎源氏」の作者・柳亭種彦(柳号・木卯)など、当時一流の文化人が名を連ねていて、作品も狂句と命名されていても、内容的にはとても面白いものがある。さらに天保狂句期には、その隆盛を極めた。
ところが、天保の改革に前後して、四世川柳は、公職の障りになるとして川柳号を辞めさせられ、佃島の魚問屋・腥斎佃(水谷金蔵)に五世川柳を譲り、自らは「柳翁」となった。 (wikipedia・川柳より)]
[同心は三十俵二人扶持を定額とし、子弟にして仮抱人は二十俵二人扶持なり。受領地は、与力三百坪、同心百坪にして、同心分は町屋敷なれば、市人に貸与することも得るものなり。 (「郷土室だより(八丁堀襍記)-アーカイブス中央区立図書館 – 42.八町堀襍記二 安藤菊二(PDFファイル:1587KB)」より)]
資料リンク
[絵図下、七軒丁右上、安藤源之進に囲われて人見周助 同為助と記述されています。 (「新作八丁堀ピ組屋敷図 – 国立国会図書館デジタルコレクション」より)]
「東京都都立図書館 – 文久新鐫八町堀細見絵図」(絵図中央堀の中之橋先左に「人見周介」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 八町堀細見繪圖(文久2 [1862])」(この絵図の時点では「人見周介」(1778-1844)は故人となっています、「人見周介」の子息「人見為助」が絵図中央火の見櫓左上方向に描かれています。)
カメラ南方向あたりが同心・人見周介屋敷跡と思われます。