小網町

マーカーはカメラ位置です。

小網町
[網を引いて将軍の観覧に供した漁師たちが、御肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得ました。この漁師たちが、一丁目の町角に網を一張干しておく風習から生じた町名と思われます。  (「中央区ホームページ – 日本橋蛎殻町地区」より)]

[小網町は昭和51年住居表示実施により、旧来の小網町1・2・3町を合せて日本橋小網町となった町です。
江戸時代、ごく初期の頃は「番匠町」といったといいますが、小網町となったのはいつ頃かはよく判りません。小網稲荷というのがあって、それをとって小網町としたという説もありますが、よくわかりません。しかし名の通り、河岸とか入江とかいった場所が多かったことはたしかです。蛎殻町もこれと関係があるようです。
小網町の漁師たちが、徳川家康入国後葛西方面へ出かけた時網をひいて見せ、肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得、外濠内での夜猟のあと明け方引きあげてくると、小網町1丁目の町角に網を一張干しておくのが慣例だったといいます。
享保になって白魚屋敷を拝領したのも、ここの漁師達の子孫で、佃島の人達とは別な特典をもっていたといわれています。(「管園心おぼえ」より)  (「日本橋小網町 | 日本橋“町”物語 | 東京都印刷工業組合 日本橋支部」より)]

佃島と白魚役との紛争
[佃島漁民は住んでいる隅田川が白魚役に握られていて漁業ができないため、遠く旧中川江戸川利根川までにも出かけていった。そのため佃島は”小網町の白魚役”と紛争の種になっていた。  (「中央区郷土史同好会 – 第28回」より)]

[将軍の食膳に供する魚献上の外、シーズン中白魚をとって、それを城内に運ぶという特別の任務を別に課せられたことから、由緒を尊重する徳川幕府が、彼等が関西から下ってきて間もなくの慶長十八年に、江戸近辺の海川どこでも網を入れて魚猟をしてよいとの特権を与えた。これが、本篇の中心をなす漁場の問題で、「江戸近辺海川」というのが、どこまでを指すのか、結局都合よく解釈すれば、どうとも解釈出来る点にある。これの解釈を佃島漁師達が実に広い意味にとり、遥かに江戸内湾をこえ、伊豆方面にまで進出して漁猟を行なっても、この「御墨附」を笠にきて、何とでも申し開きができたわけである。
そこに、白魚漁業ばかりか、一般漁業に関しても佃島漁師達が、由緒を理由づけて、他浦々漁場への侵入進出があったことは否定できない。
内湾各浦漁場との紛争がまき起るたびに、佃島側は何かにつけて、この「お墨附」をもち出し、漁場侵入問題の裁定に勝利を得るといった事件をくりかえして来た。
これは明治維新になって、すべて御破算になったとはいえ、新政府、いや東京府としても、完全に黙殺することは出来なかった。何かにつけて佃島を庇護する処置―白魚漁場の保護が、彼等の嘆願という形をとって行なわれた。皇居への白魚献上もからんで、明治十二年、佃島の白魚漁業特権の復活が認められた。そこに維新後の内湾漁業の大きな問題点があった。  (「都史紀要26 佃島と白魚漁業-その漁場紛争史-」より)]

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」[東堀留川の河口に架かる思案橋の両岸が小網町です。]

絵本江戸土産 – 江戸橋 小網町(拡大図)

[この河岸通り 新堀口に同じく 商賈の土倉軒をつらねたり これを遠方に瞻望ば あたかも万里の長城に等し  (「江戸橋 小網町」より)]

カメラ位置は思案橋跡で、カメラ北西方向が小網町一丁目、カメラ南東方向が小網町二丁目になります。

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