間部越前守詮房上屋敷跡

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間部越前守詮房屋敷跡
東京都中央区立 京橋図書館 郷土室だより(昭和52年3月15日号)・切絵図考証の三」の「第5 浜町1町目」の項に「諏訪因幡守永井肥前守一橋殿、三家のある場所は正徳年中(1711~1715)間部越前守に賜う所で、後世まで、河岸地に間部河岸(まなべがし)の称が残った。抱一上人の句に  ”夕立や大名走る間部河岸”  と詠まれた場所である。」とある。また、間部家8代に、越前国鯖江藩第7代藩主で、幕末老中首座を務めた間部詮勝(上屋敷は常盤橋御門内にあった)がいる。]

[浜町1丁目という町は、大名の蔵屋敷で占められた部分が多く、正徳になって間部下総守屋敷となった一帯、大川端元柳橋から南数町の間の河岸を間部河岸と呼んだといいます。  (「日本橋浜町 | 日本橋“町”物語 | 東京都印刷工業組合 日本橋支部」より)]

[延享三年(一七四六)五月、三代藩主詮方の時、元矢之倉(現中央区浜町一丁目)の鯖江藩下屋敷三千三百七十坪余を時の老中西尾隠岐守(西尾忠尚)に譲り、相対替によって隠岐守の四谷角筈にあった下屋敷四千二百坪に移り、幕末に及んでいる。  (「新宿歴史よもやま話 第74回 – 公益社団法人 新宿法人会」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号247/284「正徳五(1715)年之形」の絵図左ページに間部越前守(間部詮房)と記述されています。コマ番号248/284「明和八(1771)年之形」で、間部越前守(間部詮房)屋敷地が西尾隠岐守(西尾忠需)、板倉佐渡守(板倉勝清)、堀田相模守(堀田正順)、間部隠岐守(旗本本所間部家?)となっています。)

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書 一 」(コマ番号91/130・[宝永元年(1704)之形]に馬場先門右下に「間部越前守」(間部詮房)が描かれている。コマ番号92/130・右ページに[宝永3年(1706)之形]には「御用屋敷」、左ページに「正徳3(1713)年之形」には「松平下総守」と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 分道江[戸大]繪圖. [乾](出版年月日・正徳2 [1712])」(コマ番号3/3・絵図四つ切右下、馬場先御門上に「間部越前守」上屋敷が描かれています。「 御府内往還其外沿革図書 一」の[宝永元年(1704)之形]に「間部越前守」上屋敷が描かれた場所が「御用屋敷」となっていますので、屋敷替があったようです。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大繪圖(出版年月日・正徳3 [1713])」(コマ番号4/5・絵図四つ切右上、「ババサキ」御門上に「間部越前守」上屋敷が描かれ、「両国橋」左方向にも「間部越前守」上屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 享保御江戸図[出版年月日・享保10(1725年)]」(コマ番号4/5・絵図四つ切左下、「両コクハシ」と「新大橋」間に「マナベ下総」(間部詮言)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大繪圖(出版年月日・享保16 [1731])」(コマ番号4/5・絵図四つ切左下、「両コクハシ」と「新大橋」間に「間アワカサ」(間部詮方)と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間延享江戸大絵図(出版年月日・延享5 [1748])」[コマ番号3/3・絵図中央左方向、「松平陸奥守」下に「間部若狭守」(間部詮方)と記述されています。この屋敷で間部詮言が享保9年(1724年)、間部詮方が天明5(1785)年に亡くなっています。]

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」[絵図右下・小笠原弥八郎中屋敷と牧野越中守(笠間藩牧野家)中屋敷の間に間部下総守(間部詮勝)下屋敷が記述されてる。また、上記の「郷土室だより」によると、間部下総守(間部詮勝)下屋敷右上の永井肥前守上屋敷・諏訪因幡守中屋敷・一橋殿下屋敷の部分が間部越前守詮房上屋敷であった。]

間部詮勝老中時代の上屋敷
[御大名小路辰之口辺図] / 高柴三雄 誌(嘉永2年・1849年)」・「bunko01_01854_p0003.jpg」[常盤橋御門内に間部下総守(間部詮勝)の上屋敷が表示されている。]

東京都立図書館 – 増補改正麹町永田町外桜田絵図(嘉永3[1850]/元治元[1864]改正)」(絵図四つ切右上・外桜田下に「間部下総下守上屋敷」が描かれています。)

東京テレビセンターのある中央区浜町2丁目から1丁目に間部越前守詮房屋敷があった。

間部詮房
[寛文6年5月16日(1666年6月18日)、甲府藩主徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)の家臣西田清貞の子として生まれる。はじめは猿楽喜多七太夫の弟子であったが、貞享元年(1684年)に綱豊の用人になり、甲府徳川家分限帳には新井白石とともに詮房の名が見られる。藤原北家山蔭流間鍋氏であるが、綱豊の命によって間部氏となる。宝永元年(1704年)、綱豊の江戸城西の丸城入に伴い甲府徳川家家臣団は幕臣に編入され、詮房は従五位下越前守に叙任し、側衆になり1500石加増。その後も累次加増され、宝永3年(1706年)には、相模国内で1万石の大名となった。のちに加増を重ね宝永7年(1710年)高崎藩5万石を得た。日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない。詮房は、側衆としての格が上がり、若年寄に次ぐ地位になり、ついで序列上、老中の次席を命じられた。詮房は、将軍家宣・儒学者白石とのトロイカ体制で、門閥譜代大名や将軍に対して強い影響力を有する大奥などの勢力をさばき、正徳の治を断行した。しかしながら、詮房・白石の政治は、その政治的権威が将軍家宣にのみ依拠するという不安定な基盤に拠っており、特に家宣死後、幼少の徳川家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革が中々進まなかったのが実情である。そのため、家継が幼少のまま病死し、譜代大名や大奥などの推挙で徳川吉宗が8代将軍に就任すると、両人は一切の政治的基盤を喪失し失脚した。だが、大名としての地位は剥奪されることはなく、領地を関東枢要の地・高崎藩から、遠方の村上藩に左遷されたにとどまり、形式の上では5万石の大名であり続けた。享保5年7月16日(1720年8月19日)、暑気あたりで村上の地にて死去した。享年55(満54歳没)。後を弟で養嗣子の間部詮言が継いだ。間部家は上野国高崎藩5万石から越後国村上藩5万石を経て越前国鯖江藩5万石で明治維新を迎え、華族令によって子爵を授けられた。  (wikipedia・間部詮房)]より)]

間部詮勝
[文化元年(1804年)2月19日、間部詮熙の五男として江戸の鯖江藩邸で生まれる。幼名は鉞之進(えつのしん)。文化11年(1814年)に鯖江藩主となり、11代将軍・徳川家斉の側近として奏者番寺社奉行大坂城代京都所司代などを歴任する。天保11年(1840年)、家斉の推薦で西丸老中となったが、天保の改革を行っていた水野忠邦に、奢侈好みだった家斉の最晩年の側近だったと疎まれ、天保14年(1843年)に老中を辞任した。その後、安政5年(1858年)に南紀派大老井伊直弼の下で再び老中に復帰し、財政を担当する勝手御入用掛と外交を担当する外国御用取扱を兼務する。その後、勝手掛老中に上り朝廷対策、日米修好通商条約の調印など外交問題や、一橋派尊皇攘夷派を弾圧する安政の大獄に奔走する。「井伊の赤鬼」に対して「間部の青鬼」といわれたが、粛々と政敵との対話を進めた姿勢は評価されている。しかし、逮捕者の処断をめぐって「天下の多士を失うことになる」と主張した間部は井伊と対立したため、安政6年(1859年)に免職される。詮勝が老中在任中に失政ありとして、文久2年(1862年)に間部家は1万石の減封を蒙った。明治17年(1884年)11月28日に死去。享年81(満80歳没)。  (wikipedia・間部詮勝より)]