館林藩秋元家中屋敷跡

マーカーは館林藩秋元家中屋敷跡です。

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[秋元家の浜町邸は中屋敷で、『江戸藩邸沿革』に次のように記してある。
一、中屋敷 浜町
拝領寛永十二(1635)年付不詳、割替元禄二(1689)年正月、添地元禄十六(1703)年七月、坪数七千五百四拾七坪余。
・秋元家記録、日光造営奉行弐ノ時、江戸大川鰭(ひれ)ニ小屋場ヲ賜ル、今ノ浜町ノ邸ナリ。
同書、或ル書ニ、寛永十二年日光御普請材木場拝領則浜町是ナリト記セリ云々。
府内沿革図書、元禄二己年正月秋元但馬守屋敷之内東之方御用地ニ被召上、屋敷裏空地之内ニテ代地被下、屋敷前脇有来道式共続大川端通水戸殿屋敷跡乃折廻シ新道出来云々
屋敷書抜、元禄六年八月九日渡、浜町四百拾三坪、但、屋敷内御用地ニ差上候為代地、元坪之通屋敷ニテ被下、秋元但馬守。
同書、元禄十六年七月六日渡、上ケ地不知、但馬守御預地浜町六百五拾坪、但、自分御預地之処、今度拝領地ニ被仰付候ニ付相渡、秋元但馬守、明治二(1869)年正月弁官ヘ届書、坪数七千五百四拾七坪余。 (市史稿、市街篇四九 – 五九〇頁)  (「19.切絵図考証六 安藤菊二(PDFファイル:1654.23 KB)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号256/284「延宝年中(1673年-1681年)之形」の左ページ右上に秋元摂津守と記述されています。コマ番号257/284「元禄八(1695)年之形」からコマ番号266/284「当時(文久元年・1861年)之形」まで秋元但馬守と記述され、屋敷形態が変化なく描かれています。)

秋元志朝
[秋元 志朝(あきもと ゆきとも)は、文政3年(1820年)3月8日、周防国徳山藩8代藩主・毛利広鎮の八男として生まれる。母が山形藩の先々代藩主・秋元永朝の娘で、秋元家と縁戚関係にあったことから、天保2年(1831年)に叔父の出羽山形藩3代藩主・秋元久朝の養子となる。天保10年(1839年)4月13日、久朝の隠居により家督を継ぐ。
弘化2年(1845年)11月30日、上野館林藩に移封される。安政2年(1855年)の安政の大地震を契機にして岡谷瑳磨介を登用して藩政改革を断行し、江戸詰の家臣の屋敷を館林に移して藩主権力の強化を図り、学問所である造士書院(求道院)を創設した。元治元年(1864年)7月、禁門の変が起こると、毛利家の出身だったため幕府から内通の嫌疑を受け、10月27日に養子・礼朝に家督を譲って強制的に隠居させられることとなった。
しかしその後も藩政の実権を握り、長州征伐では幕府・朝廷・毛利家の仲介役を務めている。  (wikipedia・秋元志朝より)]

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」[絵図四つ切右下・秋元但馬守(秋元志朝)中屋敷が描かれています。]

カメラ位置は浜町中ノ橋交差点で、カメラ南東方向道路を含む両サイドが館林藩秋元家中屋敷跡になると思います。