鯖江藩間部家下屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP834・コマ番号461/553の鯖江藩上屋敷の変遷について記載されています。P839・コマ番号463/553「下屋敷 濱町」がこの地になります。

鯖江藩間部家
[鯖江藩(さばえはん)は、越前国(現在の福井県敦賀市から北部分)に存在した藩。鯖江陣屋に藩庁が置かれた。
享保5年(1720年)9月、越後村上藩主・間部詮言が移封され立藩した。詮言の兄・詮房は第6代将軍・徳川家宣の信任を得て権勢を振るった側用人として有名であるが、家宣の子・徳川家継が死去して徳川吉宗の代になると失脚し、1720年に失意のうちに死去した。幕閣たちはかつての詮房の専横を恨んでいたらしく、すでに詮房の存命中に高崎藩から村上藩へ懲罰的な移封が命じられていたが、その跡を継いだ詮言に対してもさらなる移封を命じたのである。当時の鯖江は無城の地で、隣は御家門筆頭の福井藩があり、近くは徳川直轄領であったことから、監視の目が行き届く位置に置いたものと思われる。このため、鯖江入りした詮言はまず、城下町や藩邸の設営から手をつけなければならず、享保7年(1722年)末にはようやく城下町の形成が整ってきた。しかし設営の莫大な費用のために、藩財政は火の車となった。
このため、幕末大坂城代京都所司代老中を歴任した藩主・間部詮勝は領民に対する徴税強化や専売制による改革で財政再建を図ったが、あまりに領民に対して厳しい収奪を図ったために失敗した。なお、詮勝は日米修好通商条約締結における処理や公武合体運動に功績を挙げたが、その反面で井伊直弼と共に尊王攘夷派や一橋派を徹底して弾圧したため、直弼の死後に一橋派であった一橋慶喜松平慶永が政治の表舞台に復帰すると、直弼の与党であったという理由から文久2年(1862年)に隠居謹慎を命じられた上、1万石を減封されて4万石とされた。慶応3年(1868年)の江戸薩摩藩邸の焼討事件庄内藩上山藩岩槻藩と共に参戦した。  (wikipedia・鯖江藩より)]

国際日本文化研究センター – 日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖(安政6・1859年)」(絵図四つ切右下に間部下総守(間部詮勝)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内沿革図書. 第一篇下」(コマ番号264/284「当時(天保九年・1837年)之形」右ページに牧野越中守と記述されています。コマ番号265/284「萬延元(1860)年之形」、コマ番号「当時(文久元年・1861年)・之形」の絵図右ページ牧野越中守屋敷地内に右上に間部下総守と記述されています。この屋敷地形態は安政6(1859)年の「日本橋北内神田兩國濱町明細繪圖」と比較すると大幅な変更で、「明細繪圖」の描画に疑問符が付きます。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP834・コマ番号461/553から鯖江藩上屋敷の変遷について記載されています。そのP839・コマ番号463/553の「下屋敷 濱町」がこの地になります。そこに下記の通り記述されています。
『一、下屋敷 濱町
  拝領安政二(1855)年三月十四日 坪数貳千坪
   安政以降各武鑑中屋敷ニ作ル。慶應地図館山藩稲葉家屋敷ニ成。顛末詳ナラズ、
   年録、安政二年三月十四日間部下総守本芝一丁目屋敷家作共御用ニ付可被差上候。為代地濱町牧野備後守屋敷内有来家作共被下之候。
   屋敷書抜、安政三年二月八日牧野備後守中屋敷之内貳千坪。但、本芝壹丁目下屋敷差上候為代地渡、間部下総守』
本芝一丁目の下屋敷が上地され、替地として浜町の牧野備後守(越中守)中屋敷の内2,000坪を拝領したとなっています。その後、慶応地図に館山藩稲葉家屋敷と成るようですが詳細はわからないとしています。]

[<浜町堀の橋>  上掲切絵図の元図、尾張屋の「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(嘉永3年新刻、安政6年再板)によると、河口から川口橋、組合橋、小川橋、高砂橋、栄橋、千鳥橋、汐見橋、緑橋が架かっていました。このうち小川橋は、「御府内備考」では難波橋となっています。また、「東京府志料」では組合橋を中ノ橋とし、その上流に明治6年(1873年)創架で、蛎殻町と浜町の合成の蛎浜橋が付け加えられ、さらに明治末の「郵便地図」では、蛎浜橋の上流に久松橋が架けられています。また震災復興橋として川口橋上流に浜洲橋、栄橋上流に問屋橋が創架され、久松橋に代わって明治橋ができ、やや下流にあった蛎浜橋が明治座通りへシフトするなど、場所の移動も見られます。  (「浜町堀2 – 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!! – Goo ブログ」より)]

カメラ位置は中央区日本橋浜町2丁目7北西角で、御府内沿革図書から想定すると、カメラ東方向が鯖江藩間部家下屋敷跡になるのではないかと思われます。