マーカーは一之橋です。
竪川の子サイトへリンク – 「二之橋」、「三之橋」、「四之橋」、「五之橋」
竪川
[竪川は1659年(万治2年)に起工された運河で、日本橋横山町と逆井の2つの地点にのろしを上げてそれを目印に開削された。 すぐ北側を千葉街道が並行していた(五之橋北詰に記念碑が建てられている)こともあり、かつては小名木川とともに隅田川と中川を結ぶ直線航路として利用され、物資の輸送はもとより、成田山、香取神宮、鹿島神宮への参詣路としても親しまれた。竪川の開削後すぐ、隅田川(大川)に近いほうから順に一之橋から五之橋まで単純に番号を振った橋が架けられた。これらの橋は通称として「一ツ目橋」「二ツ目橋」などとも呼ばれ、「三ツ目橋」「四ツ目橋」を渡る通りは後にその名を取って「三ツ目通り」「四ツ目通り」と名付けられた。なお、二之橋・五之橋を渡る通りは現在それぞれ清澄通り・明治通りと名付けられている。一之橋は回向院の南西に現存し、この橋を通る道路は墨田区によって「一の橋通り」と名付けられている。また、かつては新六の橋の東側に「六之橋」もあったが、前後の区間が完全に暗渠(大横川合流より暗渠区間)となったため、現在は橋ではなく単なる道路として扱われている。 (wikipedia・竪川 (東京都)より)]
[竪川の畔から西方を望む風景は富嶽三十六景の一つ、「本所立川」として知られる。しかし、現在、竪川の上には首都高速道路が走っており、日本橋などと同様に往時を偲ぶことは難しい。 (wikipedia・立川_(墨田区)より)]
一之橋
[本所(東京都墨田区)を東西に流れる竪川に架かる橋で、隅田川から入って最初の橋なので一ツ目橋(現在の呼称は一之橋)です。どこにでも在るただの橋ですが、赤穂浪士が吉良邸討ち入りの後、泉岳寺への引き揚げの際に渡った橋であり、そういう見方をすれば歴史的には価値のある橋です。隅田川に沿って本所と深川を結ぶ通り(現在の一の橋通り)に在る橋なので、江戸時代には人々の往来は多かったと想像され、多くの時代小説に頻繁に登場します。 (「江戸観光案内: 一ツ目橋」より)]
竪川(一之橋)資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川迄南割下水辺 : 天保一一年八月ノ形」(絵図上に堅川が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図」、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図」
「南本所竪川辺之地図 / 村上吾雄 誌」・「bunko01_01855_p0005.jpg」、「bunko01_01855_p0006.jpg」、「bunko01_01855_p0007.jpg」
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「本所一ッ目弁財天社深川八幡御旅所」(18-27)
本所一ッ目弁財天者深川八幡御旅所(拡大図)
[図会左ページに堅川一之橋、その上に江島弁天社、右ページに深川八幡御旅所(廃絶)が描かれています。]
富嶽三十六景(葛飾北斎) – 本所立川(ほんじょたてかわ)(wikipedia-photo)
カメラ位置は一之橋で、カメラ西方向・水門向こうが隅田川になります。