古河藩土井家下屋敷跡

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土井利則
[土井 利則(どい としのり)は、天保2年(1831年)9月17日、伊勢久居藩主・藤堂高秭の四男として生まれる。弘化4年(1847年)3月7日に先代の下総古河藩主・土井利亨の養子となる。嘉永元年(1848年)11月8日、養父の死去により家督を継ぐ。同年11月15日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日に従五位下・大炊頭に叙任する。
藩政では西洋砲術の演習、武芸の奨励、片町教武所の創設などに尽力しているが、病弱だったために藩政を執ることが次第に困難となり、慶応3年(1867年)4月5日に家督を長男の利与に譲って隠居した。  (wikipedia・土井利則より)]

土井利与
[土井 利与(どい としとも)は、下総古河藩の最後の藩主。
嘉永4年(1851年)6月28日、先代藩主・土井利則の長男として江戸日比谷の古河藩上屋敷で生まれる。元治2年(1865年)4月1日、将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月15日、従五位下内膳正に叙任する。家督相続後、大炊頭に改める。慶応3年(1867年)4月5日、父利則の隠居により家督を継ぐ。慶応4年(1868年)1月14日、旧幕府から神奈川守備の増強を命じられる。同年4月6日、上洛して新政府に対して恭順の姿勢を示す。同年閏4月22日、新政府軍へ貸し付けていた軍資金10500両を献上することを申し出る。
明治2年(1869年)6月の版籍奉還で古河知藩事に任じられ、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官された。  (wikipedia・土井利与より)]

東京都立図書館アーカイブ – 本所深川絵図(文久2[1862]改正)」(絵図四つ切左下・小名木川下に土井大炊頭(土井利則)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は江東西税務署入口交差点で、カメラ西方向道路を含む両サイドが古河藩土井家下屋敷跡になると思います。