対馬府中藩宗家中屋敷跡

マーカーは対馬府中藩宗家中屋敷跡です。

関連リンク – 対馬府中藩宗家上屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP390・コマ番号239/553から厳原藩(対馬府中藩)屋敷の変遷について記載されています。P391・コマ番号239/553「中屋敷 本所六間堀」がこの地になります。

宗義和
[宗 義和(そう よしより)は、文政元年(1818年)8月4日、対馬国府中藩第13代藩主・宗義質の次男として生まれる。初めは叔父・暢孫質直(ながつぐ かたなお/ただなお)の養子となり、次いで一族・樋口家の養子(養父は宗義暢の子・樋口暢英か)となった。この時代は兄で第14代藩主となっていた義章から偏諱を賜り章貞(あやさだ)と名乗っていた。しかし天保13年(1842年)に義章が死去したため、その末期養子となって家督を相続し、10月に従四位下・侍従・対馬守に叙位・任官、名も義和に改める。樋口家は弟の和理(よりただ/よりまさ)が相続した。
父の時代から続く藩政の混乱を収拾するため、財政再建を中心とした改革を行なうが失敗する。さらに世子に定めていた善之丞(後の宗義達)を廃嫡し、自らが寵愛する側室・碧との間に生まれた子である勝千代を世子をとしたが、このためにお家騒動が起こる。勝千代が安政6年(1859年)に夭折すると、義達派が巻き返して再び義達が世子となり、碧は万延元年(1860年)に追放された。
文久元年(1861年)2月にロシア軍艦が対馬に来航したロシア軍艦対馬占領事件を契機として、江戸家老佐須伊織幕府に対して対馬を公儀御料とし、宗氏は別の領地に移封してもらうように密かに嘆願するが、計画は露見、先年来の世継ぎ争いの余波もあって、伊織は尊王攘夷派の義党によって暗殺された。これにより勢いを得た義党は藩政の主導権を握り、文久2年(1862年)には長州藩との間に対長同盟を結んだ。そして藩政刷新を理由に義党は義和に対しても隠居を求めた。義和は12月25日(異説として文久3年(1863年)1月5日)に義達に家督を譲って隠居することとなった。  (wikipedia・宗義和より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 南本所大川ヨリ横川マデ堅川ヨリ小名木川ノ間 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図中央左上方向に五間堀上に宗對馬守(宗義和)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五・1852年)」(絵図四つ切左上・五間堀上に宗對馬守(宗義和)中屋敷と描かれています。)

カメラ位置は二之橋通り千歳三丁目交差点で、カメラ南西方向が対馬府中藩宗家中屋敷跡になると思います。