マーカーは忍藩松平(奥平)家越中島下屋敷跡です。
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[現在、越中島は1〜3丁目までのかなり広い地域名となっていますが、幕末以降に進められた埋め立てにより現在の形ができあがりました。正徳元年から140年ほど経った嘉永5年(1852)に成立した「本所深川絵図」 (尾張屋板)の越中島あたりには、松平下総守(松平忠国_(武蔵国忍藩主))と水野土佐守(水野忠央)の2つの大名下屋敷(現在の越中島1付近)が見え、その隣に石置場(越中島1・牡丹1・古石場1付近)の記載があります。 『書上』によれば、この石置場は、越中島町を拝領して以降、石問屋の石置き場として町が貸していたことから、地元で自然と「石置場」と呼ばれるようになったとあります。そのため、 「石置場」は越中島町の範囲に含まれたと考えられます。また、「絵図」における越中島の範囲は、松平下総守、水野土佐守、大島町(飛地) 、石置場、「丁」 (町のこと)までということになると思われます。
越中島は、榊原越中守(旗本榊原越中守照清)、そして御家人拝領町屋と移ったことから、もともと武家地として開発されたと考えられます。幕末期の「絵図」を見ても、やはり忍藩(埼玉県)の松平下総守と紀州藩(和歌山県)徳川家の附家老水野土佐守の屋敷がその大部分を占めていることがわかります。ちなみに、附家老とは、 江戸時代の初期に御三家 (尾張 ・紀伊・水戸)を支えるため、各家の家老として附けられた徳川家家臣です。
当時、日本を取り巻く情勢は大きく変わり、18世紀末から日本周辺には外国船が出没しはじめました。その対応のため、 幕府は江戸湾の海防 (海の防衛)を強化しましたが、そのなかで天保13年(1842) 、湾入口の房総半島の防衛を忍藩に命じたのです。翌天保14年、同藩は房総半島への手当てのため、越中島に屋敷地( 「絵図」の松平下総守)を拝領します。その際、幕府は越中島の町人たち(この範囲に越中島町が含まれるか否かについては明確ではありません)に立ち退き料を払い、強制的に退去させました。その後、安政元年(1854)東隣の土地が幕府の調練場になると、この屋敷は、元治元年(1864)に幕府に返上され、越中島には、元治2年2月までに砲台が築かれるという歴史をたどったのです。 (「越中島の幕末 – 江東区」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 永代橋ヨリ深川八幡州崎辺迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(コマ番号3/4・絵図中央左下に榊原式部大輔抱屋敷と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図左下隅に松平下総守、水野土佐守下屋敷が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – 本所深川繪圖(安政5・1858年)」(絵図左上隅に松平下総守(松平忠国)下屋敷が描かれています。)
絵本江戸土産 – 越中島 調練場(拡大図)
カメラ位置は清澄通り/越中島通りのT字交差点で、カメラ北西方向一帯が忍藩松平(奥平)家越中島下屋敷跡になると思われます。