マーカーは盛岡藩南部家下屋敷(蔵屋敷)跡です。
関連リンク – 盛岡藩南部家上屋敷跡、盛岡藩南部家下屋敷跡(現有栖川宮記念公園)
[品川に着いた原敬はとりあえず宿に落ち着いてから、深川佐賀町の南部家蔵屋敷に住んでいた江幡五郎に挨拶に行った。江幡は作人館の改革に努めた人物である。戊辰戦争の戦犯と目され、幽閉生活を送っていたが、原が上京する直前の明治四年九月に釈放された。
東洋史学の鼻祖・那珂通世は江幡五郎通高の婿養子である。通世は盛岡藩士・藤村源蔵政徳の第三子として盛岡に生まれた。作人館に学んでいたときに、その俊才ぶりを那珂(はじめ江幡)五郎に認められ、養子となった。江幡の釈放は養子・通世の尽力に負うところが大きいという。 (「大宰相・原敬 – 53 ページ – Google ブック検索結果」より)]
那珂通高
[那珂 通高(なか みちたか)は、藩医・江帾道俊の次男。江帾道俊は最初久保田藩の大館にいたが、藩医になったため、大館から盛岡に移住し姓も変える。弘化元年(1845年)に父が死去し、その年に藩主・南部利済の近習となるが、翌年に脱藩、江戸へ出て安積艮斎、東条一堂に儒学を学び、国史や仏典、槍術にも通じる。更に各地を放浪し、大和国の森田節斎や安芸国の坂井虎山にも師事し、当時坂井のもとにいた吉田松陰、来島良蔵らと知り合って尊王論者となる。嘉永2年(1849年)、兄・江帾春庵が藩の内紛で殺害され、家禄が没収されたことを知り、粛清した田鎖左膳暗殺を計画して松陰に協力を求めている。この際偽名として「那珂弥八郎」を名乗る。だが、4年後に田鎖が失脚したために計画は失敗に終わった。後に、真相が分かり兄の子に家禄が戻る。安政6年(1859年)に藩への復帰を許されて藩の儒官となり、通世を養子として後にかつて用いた「那珂」と改姓する。戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟参加を支持した藩の幹部として責任を問われて楢山佐渡・佐々木直作と共に幽閉される。
後に明治政府に召されて大蔵省・文部省に出仕して「古事類苑」・「小学読本」編纂に加わる。渋沢栄一・木戸孝允・陸奥宗光らと親交があったが、不平士族や自由民権運動に好意的であったために、萩の乱では前原一誠との内通の容疑で取り調べを受けた。 (wikipedia・那珂通高より)]
「国際日本文化研究センター – 本所深川繪圖(安政5・1858年)」(絵図四つ切左上・永代橋下に南部美濃守(南部利剛)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は江東区佐賀1丁目12-11地先十字路で、カメラ位置付近が盛岡藩南部家下屋敷(蔵屋敷)跡になると思います。