館林藩秋元家下屋敷跡

マーカーは館林藩秋元家下屋敷跡です。

関連リンク – 館林藩秋元家上屋敷跡館林藩秋元家中屋敷跡館林藩秋元家抱屋敷跡(淀橋浄水場跡、東京都庁)山形藩秋元家池之端下・抱屋敷跡

秋元長朝
[秋元 長朝(あきもと ながとも)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。上野国総社藩主。官位は越中守。館林藩秋元家初代。
始め庁鼻和上杉氏に仕えた。天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原征伐の際、主君の氏憲小田原城に籠もったため、長朝もこれに従って北条方に与して深谷城を守備した。長朝は攻め寄せる豊臣軍を相手に奮戦し、よく城を持ちこたえたが、本城小田原城の開城に伴い、敵将前田利家浅野長政の猛攻を察知して、杉田因幡と謀って開城し深谷を兵火から守った。その後しばらくは隠棲していたが、文禄元年(1592年)に井伊直政の推挙を受けて徳川家康の家臣となり、直政配下として上野国惣社に所領を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、戦前に上杉景勝詰問の使者として会津に赴いた。戦後も家康の命で再び会津に赴いて景勝に降伏を勧め、これを受け入れさせた。この功績により、1万石の所領を与えられて大名となった。慶長9年(1604年)、利根川から引水するという治水工事に大きな成功を収め、所領の収穫を倍増させた。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも従軍して功を挙げた。元和8年(1622年)、嫡男・泰朝に家督を譲って隠居し、寛永5年(1628年)に死去した。享年83。  (wikipedia・秋元長朝より)]

国際日本文化研究センター – 本所深川繪圖(安政5・1858年)」(絵図中央上方向・小名木川左に秋元但馬守(秋元志朝)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は東深川橋南詰で、カメラ南方向道路西側区画から東側一帯が館林藩秋元家下屋敷跡になると思います。