久保田藩佐竹家亀戸下屋敷跡

マーカーは久保田藩佐竹家亀戸下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP705・コマ番号396/553から久保田藩屋敷の変遷について記載されています。P708・コマ番号398/553「下屋敷 本所十間川」がこの地になります。

佐竹義睦
[佐竹 義睦(さたけ よしちか)は、出羽国久保田藩10代藩主・佐竹義厚の次男。幼名は雄丸。次郎(通称)。
弘化3年(1846年)11月4日、父・義厚の死去により家督を相続する。安政元年(1854年)10月15日、13代将軍・徳川家定に御目見した。同年12月16日、従四位下侍従、右京大夫に叙任される。安政2年5月11日、初めてお国入りを果たす。同年10月10日、藩政の実権を握っていた家老佐藤源右衛門に蟄居を命じる。その一派も処罰し、政治の主導権を握ろうとした。また、海防警備の強化や織物業を中心とした新産業の奨励などに努めた。
安政4年(1857年)5月20日、二度目のお国入りをする。同年5月21日、一門佐竹義矩(よしのり、佐竹東家当主、相馬樹胤の五男)が佐藤らの復権をはかるクーデター未遂事件をおこす。同年6月3日、発病する。同年7月1日秋田で死去、享年19。末期養子として、久保田新田藩主の佐竹義堯(初名・義核、宗藩を継ぐに当たり義就に改名、後に義堯と改名した)を迎え、家督を相続させた。  (wikipedia・佐竹義睦より)]

東京都立図書館アーカイブ – 嘉永新鐫本所絵図 (安政2[1855]改正/文久3[1863]改)」(絵図左下・横十間川下に佐竹右京大夫(佐竹義堯)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図右下に佐竹次郎(佐竹義睦)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は文泉公園前T字交差点で、カメラ位置を含め南東方向一帯が久保田藩佐竹家亀戸下屋敷跡になると思います。