マーカーは本所松坂町公園です。
吉良上野介屋敷跡
[吉良邸は、浅野匠頭守による殿中刃傷事件の後の元禄14年(1701)9月3日に吉良上野介義央が当地を拝領して建設された吉良家の上屋敷で、坪数2,550坪ありました。当地で赤穂浪士による仇討ち事件が起こり、その名所を惜しんだ地元の両国3丁目町会有志会が発起人となったのがきっかけとなり、本所松坂町公園として残されています。
本所松坂町公園由来
旧本所松坂町(両国3丁目)吉良家上屋敷は広大で、東西73間(134m)、南北は34間(63m)であって、坪数2,550坪と記録されています。吉良上野介が近藤登之助(※wikipediaでは松平信望)の屋敷跡を拝領したのが、元禄14年(1701)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが元禄16年2月4日ですから、吉良家の上屋敷となっていたのは、前後1年半に満たない短期間でした。屋敷の表門は東側、今の両国小学校に面した方にあり、裏門は西側に位置し、東・西・南の三方は周囲に長屋があり、北の方だけ本多孫太郎、土屋主税の屋敷と地続きになっていました。建坪は母屋が381坪、長屋は426坪です。現在、吉良邸跡として残る本所松坂町公園は、当時の76分の1にすぎませんが、地元両国3丁目町会有志会が発起人となって、邸内のいわゆる「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、昭和9年3月東京市に寄附し、これによって貴重な旧跡が維持されました。なお、区移管は昭和25年9月です。公園の周囲にある高家を表すなまこ壁の、長屋門を模した高さ2mのコンクリート壁と門とが、わずかに当時の模様を偲ばせます。なお、毎年12月14日義士討入りの日には、地元義士会によって義士祭が、その日の午後には同じく吉良祭が盛大に行われています。ちなみに、この敷地内に鎮座する松坂稲荷は、もと兼春稲荷と称し吉良邸内にあったもので、さらに古く、この地がまだ宅地開発される以前から、この周辺の土地に祀られていたものです。墨田区 (「猫のあしあと」より)]
資料リンク
[東京都立図書館 – 慶長江戸絵図[慶長12(1607)年か]」(絵図下端左方向・橋左上に「吉良左兵衛?」と描かれています。吉良左兵衛は吉良上野介の祖父「吉良義弥」と思われます。)
松之大廊下の刃傷(元禄14年[1701]以前の「元禄6年[1693]の「[江戸図]」・「ru11_01193_p0010.jpg」[絵図カチハシ(鍛冶橋)右上に吉良上ツケと記述されている。元禄11年(1698年)9月6日、江戸の大火(勅額火事)により鍛冶橋邸を焼失し、のち呉服橋にて再建する。 (wikipedia・吉良義央より]
「ru11_01193_p0011.jpg」[元禄6年時点では、屋敷替えになる土地は御竹倉となっていて、松平信望(5000石の旗本)の屋敷地にもなっていない。信望は元禄11年の勅額火事後の11月に本所御竹蔵跡地に屋敷(土地のみ)を拝領した。元禄14年(1701年)8月12日、信望は下谷の町野酒之丞のものだった屋敷を拝領し、本所屋敷から立ち去った。このあとの8月19日、吉良義央が江戸城お膝元の呉服橋からここへ移されてきた。 (wikipedia・松平信望より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図(嘉永五・1852年)」
[南本所竪川辺之地図 / 村上吾雄 誌(嘉永4[1851])」・「bunko01_01855_p0008.jpg」
「吉良邸正門跡 – Google Map 画像リンク」、「松坂稲荷神社 – Google Map 画像リンク」、「吉良邸裏門跡 – Google Map 画像リンク」
カメラ西南西方向に吉良邸表門跡駒札があります。
本所松坂町公園内のカメラです。
カメラ北東方向に吉良邸裏門跡の案内板が設置されています。