岩槻藩大岡家本所下屋敷跡

マーカーは岩槻藩大岡家本所下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP383・コマ番号235/553から岩槻藩屋敷の変遷について記載されています。P386・コマ番号237/553「下屋敷 本所横川端」がこの地になります。

大岡忠恕
[大岡 忠恕(おおおか ただゆき / ただのり)は、江戸時代後期の大名。武蔵岩槻藩第7代藩主。大岡忠房家10代当主。大岡忠固の三男。
天保9年(1838年)12月1日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下兵庫頭に叙任する。嘉永5年(1852年)8月25日、父忠固の死去により家督を相続する。文久2年(1862年)に公武合体の一環として、孝明天皇の妹・和宮が14代将軍・徳川家茂に降嫁の際、幕府より道中警備を命じられて助郷と人馬のほか34名の藩士を駆出している。この負担により藩内の村々は疲弊した。
このほかに幕末の動乱や天災、岩槻城本丸の焼失など災害にも遭い、藩の財政破綻に苦しむ治世だった。慶応2年(1866年)3月29日、隠居し、長男忠貫に家督を譲った。  (wikipedia・大岡忠恕より)]

大岡忠貫
[大岡 忠貫(おおおか ただつら)は、1866年(慶応2年)、父・忠恕の隠居により家督を相続した。武州世直一揆では忍藩高崎藩とともに鎮圧のために出兵した。1868年(慶応4年・明治元年)、戊辰戦争では新政府に恭順し、忠貫は東山道総督・岩倉具定の命により、幕府脱走兵の追討にあたった。1869年(明治2年)の版籍奉還で忠貫は岩槻知藩事に就任するが、1871年(明治4年)からの廃藩置県により、岩槻藩は廃藩となり、知藩事を罷免される。  (wikipedia・大岡忠貫より)]

東京都立図書館アーカイブ – 嘉永新鐫本所絵図 (安政2[1855]改正/文久3[1863]改)」(絵図中央左・横川下に大岡兵庫(大岡忠恕)屋敷が描かれています。)

カメラ位置は江東橋一丁目交差点で、カメラ北西方向道路を含む両サイドが岩槻藩大岡家本所下屋敷跡になると思われます。