松前藩松前家上屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP606・コマ番号347/553に館藩(松前藩)屋敷の変遷について記載されています。P607・コマ番号347/553「中屋敷 本所大川端 本所区横網町一丁目」がこの地になります。

松前崇広
[松前 崇広(まつまえ たかひろ)は、文政12年(1829年)11月15日、蝦夷地松前藩9代藩主・松前章広の六男として福山城にて誕生。幼少期は武術、とくに馬術を得意とし、また藩内外の学識経験者を招聘して蘭学、英語、兵学を学び、さらには西洋事情、西洋の文物に強い関心を抱き、電気機器、写真、理化学に関する器械を使用するなど、西洋通であった。
崇広の甥で11代藩主・松前昌広が病床にあり、昌広の嫡男・徳広もまだ幼少であったので、嘉永2年(1849年)6月9日、昌広の隠居によりその養子として家督を相続し、12代藩主となった。崇広は家督相続の挨拶のために、7月江戸に出府し、12代将軍・徳川家慶御目見し、従五位下、伊豆守に叙位・任官され、また北方警備強化のため、新たに城を築城するよう命じられ、これにより陣屋住まいから城主とされた。この城は嘉永6年(1853年)に完成し、松前城と呼ばれ、天守閣持ちの伝統的な建築技法を使った城としては江戸時代最後の城となった。
安政元年(1854年)6月、幕府は対露警備強化の観点から箱館奉行を再設置し、安政2年(1855年)2月23日にはそれまで松前藩領だった箱館周辺8ヶ村と全蝦夷地を幕府直轄とした。代地として陸奥国伊達郡梁川、出羽国村山郡東根、出羽尾花沢に合計4万石を与えられ、毎年18,000両を下賜されることになったが、それまでの蝦夷地での交易権を喪失した。このため藩財政は窮乏することになる。また、折しもこの年はニシン漁が不漁であり、その原因を巡って場所請負人と中小漁民が衝突する網切騒動が発生し、松前藩・江戸幕府を巻き込んだ騒動となった。
老中就任
一方、幕府は西洋通の崇広を文久3年(1863年)4月23日に寺社奉行に起用し、その後、元治元年(1864年)7月7日老中格兼陸海軍総奉行(慶応元年(1865年)9月11日陸海両軍総裁と改称)になり、同年11月10日老中に抜擢した。また同年11月19日、天領となっていた松前西在の乙部より熊石までの8ヵ村の還付を受けた。手当金700両が削減された。慶応元年(1865年)5月には第二次長州征討家茂の供をして京都、ついで大坂に至り、9月に陸軍兼海軍総裁となった。当時、幕府はの4ヶ国と兵庫開港、大坂の市場開放を内容とする条約を締結したが、朝廷から勅許が得られず、条約内容が履行されない事態だった。4ヶ国は軍艦を率いて兵庫に進出、兵庫開港を要求した。
この事態を受けて、老中の阿部正外と崇広は独断で兵庫開港を決定した。このため10月1日に朝廷は正外と崇広に対して官位の剥奪、謹慎を命ずる勅命を下した。将軍・家茂はやむなく正外・崇広両閣老を免職し、国許謹慎を命じた。
崇広は慶応2年(1866年)1月に松前に帰還したが、同年4月25日、熱病により松前で死去した。享年38。跡を養子の徳広が継いだ。  (wikipedia・松前崇広より)]

松前徳広
[松前 徳広(まつまえ のりひろ)は、天保15年(1844年)3月14日、11代藩主・松前昌広の長男として福山城にて誕生。嘉永2年(1849年)に父が隠居したが、徳広は幼少だったため叔父・崇広が藩主に就任した。嘉永6年(1853年)3月に世子に指名され、安政5年(1858年)12月に従五位下、志摩守に叙位・任官する。
慶応2年(1866年)4月に崇広が死去したため、その養子として家督を相続した。文人で尊王派であったがしかし元々肺結核かつ重度の痔疾で、さらに精神病でもあったために政務を執れず、さらに松前氏では若年で家督を継ぐ藩主が続いたことから、歴代藩主は重臣に統治を任せ、結果として専横への不満が藩にくすぶっていた。また藩は新政府方と奥羽越列藩同盟にそれぞれ遣いを立てる日和見政策を取っていたため、藩内の両派閥の不満もあった。同年11月に徳広は藩主を退く発言をしたため、藩を主導する筆頭家老松前勘解由らは崇広次男の敦千代(松前隆広)の後継擁立を画策した。しかし日頃から勘解由の執政に批判的な勢力がこれに反発し、勘解由は家老を解任・蟄居となる。ただし勘解由抜きでは藩政はままならず、慶応4年(1868年)4月には家老に復帰。
慶応4年(1868年)7月には鈴木織太郎や下国東七郎ら尊皇派の40名余の家臣団らが蜂起した。箱館の新政府方と連携し、正義隊を名乗って徳広に対し建白書を提出、佐幕派の一掃と勤王への転向を強要した。弱っていた徳広はこれを承諾したため、慌てた家老の松前勘解由は急遽登城しようとするが果たせず、集まった1千名もの藩士と共に藩の武器弾薬庫から武器を出し、松前城の東にある法華寺から正義隊が立て籠もる城中への砲撃を企図するが、君臣の分を弁えよと説得され思いとどまる。翌29日に勘解由は家老を罷免された。8月1日に正義隊は佐幕派重臣らを襲撃、勘解由も屋敷を襲撃されるがこれは撃退するも、8月2日に自宅禁固となり、8月3日、勘解由は切腹となった。その他重臣の多くは正義隊の思うままに処罰され、正義隊により新たに合議局・正議局・軍謀局などが創設され、人材の新たな登用なども行なわれるなどしたが、藩内は著しく混乱した。
この状況の中、藩は箱館戦争を迎えることとなる。
箱館戦争
同年10月には榎本武揚らの旧幕府軍が北海道に来襲、箱館の五稜郭を拠点として松前に攻め込んだ。これらの動きに備えて新規に構築しつつあった館村新城(館城)に10月28日までに藩主一同および藩の主力は移動した。11月1日に榎本軍の軍艦蟠竜が松前を砲撃している。松前藩は榎本軍を奇襲するも撃退され、逆に11月5日に土方歳三を総督とした彰義隊額兵隊衝鋒隊などからなる700名が松前に来襲し、松前城搦手門から攻めかかってきた。城代家老蛎崎民部を中心に五百名あまりが籠城した松前城は、その構造が搦手門からの攻撃をほぼ想定しておらず、さらに防衛戦力を欠いていた松前城は大砲で抵抗するも数時間のちに開城した。残存の藩兵は城下に火を放ち、江差方面へ退却した。
一方、榎本軍の別働隊500名が徳広らの逃れた先の館城攻略に来襲した。しかし藩主らは12日に西在熊石村に避難済みであり、城には60名ほどが籠っていただけであった。11月15日午前9時頃攻撃が開始され、1時間ほど激しい銃撃戦が続いた後、表門の下の隙間から侵入した旧幕府兵が門を開け、兵が乱入し白兵戦となった。まな板を盾にしつつ太刀で戦い壮絶な戦死を遂げた三上超順の奮戦もあったが、城は落城した。なお、箱館戦争終結後、松前藩は館城に因んで「館藩」を名乗った。
22日、追撃する榎本軍が熊石村に到着すると、しかし徳広ら男女60余名は既に本土の弘前藩へ落ちて行った後であった。残存の藩士ら300名が榎本軍に投降した。
時を同じくして、江差に逃れた松前藩軍を攻めるために榎本軍の主力軍艦開陽が派遣されたが、江差の松前藩兵は既に退却済であった。道中で大滝陣屋を落とした額兵隊が15日に陸から江差に攻め込んだ際、江差は既に榎本海軍により占拠されていた。同夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽は座礁した。箱館から回天と神速丸の二隻が開陽救出のために江差に到着したが、神速丸も座礁した。為す術なく総員退艦した開陽は数日後に沈没。これにより榎本軍は頼みの海上戦力を大きく減らすこととなり、新政府方の軍の上陸を安々と許すこととなった。
徳広らは11月24日には弘前藩領の薬王院に逃れたが、ここで徳広は喀血して倒れ、11月29日に死去し長勝寺に埋葬された。『弘藩明治一統誌』によれば咽を突いて自殺したとある。享年25。
明治3年(1870年)10月、長勝寺に仮葬した遺骸を菩提寺である法憧寺へ改葬された。  (wikipedia・松前徳広より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 本所絵図(嘉永五・1852年)」(絵図四つ切左下・御竹蔵左に松前伊豆守(松前崇広)上屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川迄南割下水辺 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図中央右に御米蔵右に松前志摩守(松前昌広)と描かれています。)

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国浅草区須賀町及本所区横網町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図四つ切右下・陸軍倉庫のエリアが御竹蔵跡で、その左徳川邸が松前藩松前家上屋敷跡になります。)
(内題)東京府武蔵国日本橋区濱町及本所区相生町深川区常磐町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図中央上・横網町の上が松前藩松前家上屋敷跡になります。)

カメラ位置は両国駅と国技館の間で、この付近が松前藩松前家上屋敷跡になると思います。