肥後新田藩細川家吾妻橋下屋敷跡

マーカーは肥後新田藩細川家下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP575・コマ番号331/553から高瀬藩(肥後新田藩)屋敷の変遷について記載されています。P577・コマ番号332/553「一、下屋敷 本所中之郷 本所区中ノ郷竹町」がこの地です。

細川利永
[細川 利永(ほそかわ としなが)は、肥後肥後新田藩(高瀬藩)の第10代(最後)の藩主。
文政12年(1829年)1月24日、第8代藩主・細川利愛の三男として生まれる。嘉永6年(1853年)5月に従兄で第9代藩主の利用の養子となり、安政3年(1856年)7月21日に利用が隠居したため跡を継いだ。同年12月に従五位下、若狭守に叙任する。
元治元年(1864年)4月、神田橋御門番、慶応元年(1865年)7月、佃島砲台警備などを務めた。慶応4年(1868年)7月25日、藩名を高瀬と改名する。明治2年(1869年)、同族の宇土藩と共に大原口警護を務めた。明治3年(1870年)9月4日、廃藩となり、その所領は本家熊本藩に合併された。  (wikipedia・細川利永より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 北本所大川ヨリ横川辺右石原北割下水迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(絵図中央上・大川橋右に細川能登守(細川利用)と描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 嘉永新鐫本所絵図(安政2[1855]改正/文久3[1863]改)」(絵図右上・吾妻橋下に細川若狭守(細川利永)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は吾妻橋東詰交差点で、カメラ南東方向二本の道路を含む、中央及び両サイドが肥後新田藩細川家下屋敷跡になります。