亀戸銭座跡

マーカーは亀戸銭座跡碑です。

亀戸銭座跡
[銭座(ぜにざ)とは、江戸時代寛永通寳を始めとする銭貨鋳造した組織あるいは機関である。
江戸時代前期は、寛永通寳などの銭貨鋳造は民間の商人らによる請負事業であり、江戸幕府の許可制によるものが中心であった。すなわち、銭貨の需要が生じたとき幕府は随時、鋳銭希望者を公募し、銭貨を大量生産する能力を持つ者に期限を区切って鋳銭を命じたのであった。鋳銭高が目標に達すると銭座は解散した。このような請負人には呉服屋、糸割符仲間、銀座役人などの有力町人が名を連ねている。これらの銭座には鋳造高の5~20%、原則として10%程度を運上として幕府に上納させている。しかし全国六十箇所以上に上る各銭座により鋳造された寛永通寳の製作および素材は多種多様であり、外観上の画一性を欠くものとなっていった。
正徳4年(1714)以降、江戸亀戸、佐渡相川、江戸深川十万坪、大坂難波、仙台、淀鳥羽横大路、江戸小梅、下総猿江、紀伊宇津、伏見、下野日光、秋田銅山、石巻、相模藤沢、大坂高津、下野足尾などに銭座が設けられ、寛永通寳が鋳造された。このとき幕府は銭貨の質の管理および、需要が逼迫していた銅の統制を強めていた関係上から、銭の背面に鋳造地を示す文字を鋳出させたり、また面文に特徴を持たせて鋳銭地の明確化を図った。
明和2年(1765年)以降は金座および銀座が鋳銭事業を兼任することになり、定座としての銭座が確立し、鋳銭に対する幕府の支配が強化され、銭貨の均質化が図られた。また元禄年間を過ぎた頃からの産出に陰りが見え始め、輸出用の御用銅が不足し始めたことも鋳銭事業に対する幕府の管理体制を強化させた一因である。  (wikipedia・銭座より)]

[亀戸銭座跡モニュメント 平成6年3月設置(ファイル:銭座・亀戸銭座跡・1.jpg)
このモニュメントは、寛文8年に亀戸銭座で造られた「寛永通宝」をモデルに作成したものです。レリーフには、「銭座絵巻」(享保13年(1728年))より銭座で行われていた銅貨製造工程のうち、平研(銅貨の表面を磨く)作業をしている図(日本銀行貨幣博物館所蔵)の絵を参考にしたものが描かれています。江戸時代に銅銭が本格的に鋳造されたのは、寛永13年(1636年)に始まります。そのため、幕末までに造られた銅銭は全て寛永通宝と称し、「寛永通宝」の文字が打ち出されています。寛文3年(1663年)から天和3年(1683年)まで、亀戸2丁目の住宅・都市整備公団団地のある付近で、寛永通宝銭が造られ、「亀戸銭座」と称しました。そこに、「亀戸銭座跡」の標柱が立っています。寛永通宝の裏面は無印のものが多いのですが、造られた場所の文字などが入ることがあり、この時造られた銅銭には「文」の文字が入っており、「背文銭」といわれています。また、明和5年(1768年)にここで造られた真鍮銭には、21本の波模様があるので「波銭」といいます。明和6年(1769年)に造られた真鍮銭には、11本の波があり、その「寛永通宝」の文字は、福住に住んでいた書家三井親和の筆跡です。亀戸銭座では、このほかにも元禄4年(1691年)、宝永5年(1708年)から正徳2年(1712年)、正徳4年(1714年)から享保3年(1718年)、元文2年(1737年)、明和2年(1765年)から4年(1767年)としばしば銅銭や鉄銭を鋳造した記録が残っています。昭和41年に当時の日本住宅公団が住宅を建てる時に、多くの寛永通宝銭が発見されました。  (「江東区・亀戸銭座跡モニュメント」より)]

東京都立図書館アーカイブ – 再刻新板本所深川細見圖(天明[1781-1789]改正) 」(絵図四つ切左上・上中央十間川上に銭座が描かれています。)

亀戸銭座跡 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向が亀戸銭座跡の碑です。

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