マーカーは宝幢院です。
宝幢院(ほうどういん)
[宝幢院は医王山東光寺と号し、真言宗智山派に属する寺院で、本尊は薬師如来像です。寛正2年(1461)宥鎮和尚によって開山され、約150年後に深承阿闍梨及び宥意和尚が中興しました。『新編武蔵風土記稿』には、慶安2年(1649)に三代将軍徳川家光から赤羽根村内に10石余の年貢・課役免除の朱印を付されたことが記されています。寺伝や浮間の古老の言い伝えによれば、かつてこの寺は、浮間村西野(現在の浮間4丁目にほぼ相当)にありましたが、荒川の氾濫による洪水を避けて赤羽に移転し、跡地は宝幢院屋敷と呼ばれたそうです。
境内には、区内最古の寛永16年(1639)霜月18日銘の阿弥陀如来線刻庚申塔(あみだにょらいせんこくこうしんとう)があります。板碑型の石塔本体正面には、阿弥陀如来立像と二猿が線刻され、「山王廿一社」の文字を見ることができます。「庚申」という文字が無く、本来は三猿のところが二猿であるために、この塔を庚申塔と呼ぶかは議論が分かれますが、区外には、庚申信仰と山王信仰の結びつきを表した類似のモチーフがあるところから、この塔も両者の信仰が結びついて造立されたようです。
その他に馬持講中(当時馬を飼っていた資力のある村民)の人名を刻んだ馬頭観音塔や、出羽三山供養塔などがあり、この地の歴史を知る上で貴重なものとなっています。 (「文化財説明板宝幢院|東京都北区」より)]
宝幢院(ほうどういん)前の道標(みちしるべ)
[門に向かって右側の道標は、江戸時代の中期、元文5年(1740)12月に了運という僧侶によって造立されたものです。
宝幢院の前は、板橋道が日光・岩槻道と合流する位置でしたので、 銘文には「東 川口善光寺道 日光岩付道」・「西 西国冨士道 板橋道」・「南 江戸道」と刻まれています。日光・岩槻道は、岩淵宿から川ロへと船で渡り、鳩ケ谷・大門・岩槻の宿場をへて幸手宿で日光街道に合流する道筋です。江戸幕府の歴代将軍が徳川家康・徳川家光の廟所のある日光東照宮に社参するための専用の街道としたの で日光御成道とも呼ばれました。板橋道は、西国へと向かう中山道 や八王子から冨士山北麓の登山口へと向かう冨士道へ通じていまし た。
道標は、各々の方向からきた人々が、まず、自分の歩いてきた道を確認し、つぎに、これから訪ねようとする土地への道が、どの道なのかということを確認できるように造られたものです。 (「文化財説明板宝幢院前の道標|東京都北区」より)]
カメラ北方向が宝幢院山門です。
カメラ位置は通用門で、門左に宝幢院前の道標と案内板があります。
本堂前・桜の季節のカメラです。
本堂前のカメラです。