マーカーは志村の一里塚です。
志村の一里塚
[平尾の一里塚から上方(京側)へ板橋宿を出て1里進んだ所には、日本橋から3里(約11.8km)、道中3つ目の一里塚である志村の一里塚がある。 2基一対の一里塚が、今日でも塚と木(榎)をそのままにほぼ完全な形で保たれており、最も保存状態のよい一里塚跡の一つとして知られている。 この区間の中山道が近代化にともない国道化された昭和初期の整備の際、塚は少し移動され、3段積みの石垣で土の崩れを防ぐ現在の姿となった。なお、このあたりからは荒川右岸と武蔵野台地の境目にあたり、地形は起伏に富んだものとなる。 (wikipedia・板橋宿より)]
[江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として一里(四km弱)毎に、道を挟んで二基ずつ築かれました。 志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830)の「新編武蔵風土記稿」では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。 幕末以降、充分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年から行われた新中山道の工事の際に,周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され,現在に至っています。今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正11年(1922)に國の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました。平成17年3月 板橋区教育委員会 (「中山道餐歩記-1へ」より)]
「志村一里塚(東側) – Google Map 画像リンク」、「志村一里塚(西側) – Google Map 画像リンク」
志村一里塚(東側)・カメラ東南東方向に志村の一里塚案内板があります。
志村一里塚(西側)