マーカーは智清寺です。
智清寺
[14世紀初めの創建と伝わる浄土宗寺院です。江戸時代は、将軍家から5石の寺領を与えられた朱印寺でした。当寺に伝わる古文書は、江戸時代から近代までの寺院経営や政府の宗教政策を知る上で貴重です。境内に残る石橋は中用水(江戸時代の上郷七か村用水)に架かっていたもので、正徳4年(1714)に造られました。
●中用水遺構石橋
板橋登録記念物(史跡) 昭和61年2月14日登録
中用水は、元禄8年(1695)、下板橋宿根村(現双葉町)に、石神井川の水を取水するための堰場(せきば)が築かれたことに始まります。根村堰から分水された用水は、下板橋・十条・稲村・赤羽・岩淵・下・神谷の七か村の田を潤し、江戸時代には「上郷七か村用水」と呼ばれていました。
田を潤す貴重な水だけに、用水の水量確保や維持管理をめぐる水争いも多発しました。特に明治9年(1876)には根村堰の修繕が発端となり、中用水を利用する村々と下流の王子堰から分水する下用水を利用する村々の対立が一触即発の事態となり、中用水側は根村堰を守るために智清寺に集まり炊き出しを行いました。
この石橋は智清寺の参道に正徳4年(1714年)に架けられたもので、幅2.8m、長さ1.35mを測り、橋柱に「正徳四甲午年二月十五日 当山七世和誉造立 新田徳兵衛 石橋 石掛」の銘が刻まれています。現在は埋めらてしまった中用水の存在を示すとともに、水騒動の歴史を語り継ぐ貴重な史跡です。
智清寺・画像リンク、中用水遺構石橋・画像リンク (「智清寺のご案内 | 板橋区」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [30]貮拾貞(嘉永七年・1854年)」(コマ番号8/13・絵図中央上に「藍染日曜寺年貢地」と「智清寺」が描かれています。)
「智清寺 – Google Map 画像リンク」「木下藤吉郎出世稲荷大明神 – Google Map 画像リンク」
カメラ西北西方向が智清寺総門です。
智清寺本堂前のカメラです。
木下藤吉郎出世稲荷大明神前のカメラです。