マーカーは鶴牧藩水野家下屋敷跡です。
関連リンク – 鶴牧藩水野家上屋敷跡、鶴牧藩水野家中屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP632・コマ番号360/553から鶴牧藩屋敷の変遷について記載されています。P637・コマ番号362/553「下屋敷 巣鴨」、P638・コマ番号363/553「下屋敷 巣鴨」がこの地になります。
水野忠韶
[水野 忠韶(みずの ただてる、宝暦11年11月2日(1761年11月27日) – 文政11年5月26日(1828年7月7日))は、安房北条藩の第3代藩主、のち上総鶴牧藩の初代藩主。忠位系水野家4代。
北条藩第2代藩主・水野忠見の長男。官位は従五位下、壱岐守。
忠見は兄・忠寛の遺児である忠廉を養嗣子にしていたが、忠廉は早世したため、安永4年(1775年)の忠見の死去により、忠韶が跡を継ぐこととなった。安永8年(1779年)12月に叙任する。
天明4年(1784年)3月に大番頭となり、天明7年(1787年)3月に奏者番となる。文化5年(1808年)11月には若年寄となった。文政10年(1827年)8月19日、上総鶴牧に移封となる。
文政11年(1828年)5月26日(5月27日とも)に死去した。はじめ娘婿の忠篤を養嗣子としていたが早世したため、代わって養嗣子とした忠実が跡を継いだ。 (wikipedia・水野忠韶より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 巣鴨絵図(嘉永七年・1854年)」(絵図下中央右に水野壱岐守(水野忠順)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [25]貮拾亨(嘉永七年・1854年)」(コマ番号2/5・絵図四つ切左下水野周防守(水野忠順)抱屋敷と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 3号」(コマ番号4/6・絵図左下に水野肥前守抱屋敷と描かれています。)
カメラ位置は豊島区南大塚1丁目10-24地先・さいとう坂上で、カメラ南西方向がさいとう坂で坂左一帯が鶴牧藩水野家下・抱屋敷跡になると思います。