マーカーは円勝寺です。
円勝寺
[浄土宗の円勝寺は、光明山照徳院と号し、僧信阿聖法(弘安9年2月15日寂)が曲輪内龍ノ口付近に開山したと伝えられます。慶長年間に寺領5石の朱印状を賜った御朱印寺です。
伊佐家の墓
円勝寺の墓域には石州流茶道の流れをくむ伊佐家代々の墓があり、墓石に文化5年(1808)11月銘の初代と二代の和歌及び・俳句が刻まれています。
出る日も入る日も遠き霊鷲山 またゝくひまに入相のかね 初代 半寸庵知當
後世のたひおもむきたまふ秋の夜の わかれそむかし今のおもひて 二世半寸庵知義
極楽や冬こもりする 阿弥陀堂 二世半寸庵吟洌
伊佐家は江戸時代の茶人の家柄で、代々幸琢を名乗り、数寄屋頭を勤めました。初代(1684~1754)は半々庵と号し、怡渓宗悦に石州流茶道を学んで石州流伊佐派の開祖となりました。二代 (1706~95)は半提庵、三代(~1808)は半寸庵と号しました。
数寄屋頭とは茶道頭とも称した江戸幕府の職制で、若年寄の支配下にありました。職務は数寄屋坊主を指揮して、徳川御三家や大名などの茶事を取り扱うことです。伊佐家は数寄屋頭として幕府の茶道を支配していたので、武家茶道界では大きな勢力を持っていました。特に三代の門下からは、茶人としても著名な松江藩主の松平不昧 (治郷・1751~1818)などが輩出しました。 (「猫のあしあと」より)]
[怡渓宗悦の流れ
怡渓宗悦(1644年~1714年)は大徳寺253世に就いたあと江戸に帰って広尾祥雲寺や東海寺_(品川区)にあった高僧である。藤林宗源の没後、江戸において『石州流三百ヶ条註解』を著して石州流を諸国へ伝播する中心的な役割を果たした。この流れを汲む流派を一般に怡渓派と称する。初代伊佐幸琢(1684年~1745年)は怡渓宗悦より皆伝を受けた高弟で、以後5代に渡って江戸幕府の御数寄屋頭となり怡渓派を伝える。 (wikipedia・石州流より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [35]貮拾壹亨(安政三年・1856年)」(コマ番号6/7・地図中央右上方向に圓勝寺が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊嶋郡中里村絵図面(出版年月日[江戸末期])」(コマ番号3/4・絵図中央左上に圓勝寺境内と描かれています。)
「江戸名所圖會. 卷之1-7 / 齋藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 畫圖」・「圓勝寺五石松・光明山圓勝寺解説は左ページ2行目より」(15-13)
圓勝寺五石松(拡大図)
カメラ北北東方向が円勝寺です。
円勝寺本堂前のカメラです。