マーカーは向陵稲荷神社です。
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「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP705・コマ番号396/553から久保田藩屋敷の変遷について記載されています。P709・コマ番号398/553「抱屋敷 日暮里」がこの地になります。
向陵稲荷神社
[この辺りにあった秋田藩主佐竹氏の抱屋敷内に江戸時代初期より祀られていましたが、その後町の鎮守となり、大正15(1926)年に現在地に移りました。近年、受験合格祈願の参拝者が増えています。画像リンク (「荒川区ホームページ – 向陵稲荷神社」より)]
[当社は向陵稲荷大明神(宇迦之御魂神)を主神とし祭祀を行い、祭神の神徳をひろめ本神社を信奉する人々を教化育成し、家内安全・商売繁盛及び学業成就の神であります。 当社は江戸時代初期より佐竹右京太夫の屋敷内に祀られておりましたが、大正の初期渡辺町(現西日暮里4丁目の一部)の開設されたときにひぐらし公園(現開成学園中学校の校庭)に祀られ、町の鎮守と崇められていました。後当所に移転しましたが、昭和20年の大戦災で全町焼土と化しましたが当社は不思議にも戦火をまぬかれ神威赫々として現存し、昭和46年社殿を改築社務所を新設し、宗教法人向陵稲荷神社となりました。(荒川区教育委員会掲示より) (「猫のあしあと – 向陵稲荷神社|荒川区西日暮里の神社」より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 根岸谷中辺絵図(安政3年・1856年)」(絵中央付近に道灌山、佐竹右京太夫下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [35]貮拾壹亨(安政3年・1856年)」(コマ番号7/7・地図左方向に佐竹右京太夫抱屋敷が描かれています。)
カメラ西方向が向陵稲荷神社参道です
向陵稲荷神社本殿前のカメラです