光福寺

マーカーは光福寺です。

光福寺
[浄土真宗系単立の光福寺は、大井山と号します。延暦元年(782)11月、顕教房栄順律師が天台宗神宮寺として開創したと伝えられています。1200年以降に関東六老僧の一人了海上人が父の俗名光福の名をとり、浄土真宗光福寺として再興し、現在に至っています。
品川区の文化財による光福寺の縁起
延暦元年(782)11月、伝教大師の法脈を伝える性顕阿闍梨の弟子顕教房栄順律師の開創になるものと伝えられている。随って開創当初は神宮寺と呼ばれ天台宗であったが、その後文永2年(1265)に了海上人が再興してより浄土真宗となったと伝えられている。了海は東国に流されていた鳥羽院の皇胤信光の嫡男中将光政が荏原の住人実経の娘(一説では滋野井宰相の父)を娶って、設けた子と伝えられている。了海は当寺の境内にある井戸の井水を産湯としたといわれており、現在の大井の井戸と呼ばれる湧き水が当寺の境内にあり、品川区文化財に認定されている。この井戸があることによって当寺は大井山と呼ばれており、また大井の地名もこの井戸によって起こったものだといわれている。了海は建仁元年(1201)に生まれ幼名を松丸と呼ばれていたが、8歳のとき出家して覚円律師に仕えた。のち叡山に登って浄宋僧都の門に入った。その後親鸞に師事したが、この頃父光福も空範と号し親鸞の門に入って剃髪したので帰国して当寺を再興し真宗に改め光福寺と改称したという。また了海は麻布善福寺をも開創したといわれている。(品川区の文化財より)  (「猫のあしあと」より)]

[西光寺から300メートル南には光福寺があります。挿絵(江戸名所図会)には寺の全景のほかに「大井」という井戸が描かれています。これは本堂裏の墓域のなかに「大井」と刻銘された横穴式の井戸があり、かたわらの石碑には「開基了海上人産湯井(かいきりょうかいしょうにんうぶゆのい)」と書かれています。昔、この寺に身を寄せていた了海上人の父が子授けを祈願したところ男の子を授かりました。そのとき寺の境内から忽然と泉が湧き出したので、この水で産湯をつかわせたと伝えています。  (「江戸から明治の品川名所 第7回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「大井」左上に光福寺が描かれています。]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「弘福寺」(4-38)、「大井・大井山弘福寺解説-1は右ページ中程過ぎから」(4-39)、「大井山弘福寺解説-2・右ページ2行目まで」(4-40)
弘福寺(拡大図)

大井(拡大図)

光福寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向が光福寺参道です。

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