マーカーは戸越公園です。
関連リンク – 肥後新田藩細川家上屋敷跡、肥後新田藩細川家下屋敷跡、肥後新田藩細川家深川下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP575・コマ番号331/553から高瀬藩(肥後新田藩)屋敷の変遷について記載されています。P577・コマ番号332/553「一、抱屋敷 大崎村」がこの地です。
肥後新田藩細川家下屋敷跡(戸越公園)
[戸越公園(とごしこうえん)は、東京都品川区豊町にある品川区立の公園である。当地一帯は江戸時代初期の寛文年間に熊本藩主・細川家の下屋敷があったところで、後に細川家の戸越屋敷として屋敷や回遊式庭園などが整備された。その後所有者は、松平家や久松家などを経て、1890年に三井家に移った。1932年には三井家から当時の荏原町(後の品川区)に庭園部分が寄付され、1935年3月24日に東京市立戸越公園として開園した。1950年には管轄が東京都から品川区に移譲された。江戸時代の回遊式庭園の雰囲気が良好に保たれており、品川区を代表する公園として知られる。
戸越公園の正門(薬医門)・wikipedia-photo、戸越公園の東門(冠木門)・wikipedia-photo (wikipedia-戸越公園より)]
[肥後国熊本藩54万石の細川家は、かつて10万坪に及ぶ下屋敷を所持していました。現在の豊町1,2丁目の一部、戸越3丁目の一部、戸越4,5丁目、さらに 第二京浜国道を越えた東中延一丁目の一部を含むという広大なものでした。今回は、この熊本藩の下屋敷の入手経過と戸越屋敷成立までのお話をしましょう。
熊本藩主細川綱利の弟、細川利重が、寛文2年(1662)に江戸幕府から拝領したのが始まりです。当初2万2500坪を与えられることになっていましたが、藩主の弟で、分家し熊本新田藩を立てることになっていた利重には不釣合いな広さということで、7500坪の屋敷となりました。しかし、利重はこの地が遠方であったため、この戸越屋敷には居住せず、寛文6年(1666)に綱利の白金屋敷の中に、替地をもらって交換したのです。その後、利重は寛文9年(1669)に本所猿江村(江東区)に抱屋敷を求めて居住しました。一方、この戸越屋敷は本家の下屋敷として使われることになるのです。この屋敷地は、拝領地7200坪に、御抱年貢地(おかかえねんぐち)2万6000坪余りがあり、さらに周辺地を囲い込んで広大なものになっていったと考えられています。戸越屋敷の絵図「戸越御屋敷惣御差図(そうおさしず)」という史料によると、寛文11年(1671)出来とあり、利重との交換から5年ほどで、周囲の土地を囲い込み、御殿や庭園を整備して10万坪もの広大な屋敷としていったことになります。この絵図から戸越屋敷は、広大な敷地を南北にはしる馬場で東西に二分されていて、東側部分には、表門を入ると数寄屋造りの御殿群があり、そこから眺めることのできる庭園が造られていました。そこには泉水や築山があり、太鼓橋などでつなぐ島々、池の中に張り出すように茶室が造られていました。現在の戸越公園と旧国文学研究資料館の池は、形こそ変わっていますが、戸越屋敷の東側部分に、いくつかあった池の一つなのです。東側よりも広大な西側部分には、中央に大きな泉水があり、そのなかには島がいくつかあり、中央の島には観音堂がありました。泉水の北には茶室があり、南には富士山を模した山が築かれ、さらに南の塀沿いには馬場があり、花畑や畑が作られていました。西側の庭園に来れば散策ができ、馬にも乗れ、船遊びもできたのです。さらに、本図には、屋敷内に植えられていた樹木の表示もあり、暖かい九州の大名らしく「ソテツ」が植えられていたことがわかります。広大な戸越屋敷の機能は、まさに藩主の別荘であったことがうかがえます。この戸越屋敷も延宝6年(1678)10月18日、屋敷内の御茶屋から発生した火災で焼失し、その後、衰退の一途をたどることになるのです。 (「品川の大名屋敷 第11回|品川区 – 品川区 Shinagawa City」より)]
「昂) I i歴史館解説シート NO.18江戸の大名屋敷 熊本藩戸越屋敷」よりの画像
[薬医門 (やくいもん) – 鏡柱から控え柱までを取り込む屋根を持つ。本来は公家や武家屋敷の正門などに用いられたが、扉をなくして医家の門として用いられたのでこの名前がある。
冠木門(かぶきもん) – 門柱に貫(ぬき)をかけたもの。江戸時代には櫓門や楼門ではない平門を指していたが、明治以降は屋根を持たない門を指すことが多い。 (wikipedia-門より)]
「バンド・オブ・トーキョー 戸越公園「品川区立 戸越公園」の桜」
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「戸越」右下に細川越中守と記述されています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [5]拾六下」[コマ番号153/171・宝暦八(1758)年之形左ページに細川越中守抱屋敷と描かれています。コマ番号154/171・当時之形(弘化三(1846)年)左ページに松平壱岐守抱屋敷(伊予松山藩)と描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下」[コマ番号3/5・津軽越中守屋敷地がある一画右上で、霊源寺参道前道は相州道(中原街道)で右の道が百反通りになります。その交点上方向に京極長門守抱屋敷が、左方向に松平壱岐守抱屋敷(旧肥後新田藩細川家下屋敷跡現在の戸越公園)が描かれています。]
「戸越公園 – Google Map 画像リンク」、「文庫の森 – Google Map 画像リンク」
カメラ南南西方向が肥後新田藩細川家下屋敷跡(戸越公園の正門(薬医門))です。
カメラ北西方向が戸越公園の東門(冠木門)です。
戸越公園内のストリートビューです。