井之頭弁財天

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井之頭弁財天
[江戸時代の特に江戸市民にとっては、弁才天は信仰の地であるとともに、行楽地でもあった。これは、江戸時代の初頭に神田川が改修されて江戸に神田上水が引かれたため、江戸市民にとって井の頭池が水がめとなったことと関連している。弁財天境内や向かいの石段、石段を登りきった周辺などに、その当時の商人や歌舞伎役者が寄進した石灯籠宇賀神像などが残る。なお、かつては石造りの鳥居も存在した。この鳥居は1767年(明和4年)に寄進されたものである。しかし、この鳥居は明治初年の神仏分離令の際に撤去され、鳥居の柱石は後に井の頭池と神田上水の間の水門に転用された。その水門は現在使用されていないものの、池の東端付近に今も残る。弁財天への参道は、現在も史跡として整備されており、「黒門」と呼ばれる黒い鳥居もある。
歌川広重「名所雪月花・井の頭の池 弁財天の社雪の景」・wikipedia-photo (wikipedia・井の頭恩賜公園より)]

[井の頭弁財天堂は、平安時代天慶年間(938年-947年)源経基が創建したものと伝えられ、その後源頼朝が1197年(建久8年)に再建し、別当となる坊舎が立てられたと伝えられる。1333年(元弘3年)新田義貞鎌倉を攻めた際に焼失し衰退していたが、江戸時代に入り3代将軍徳川家光によってようやく再興されたという。1923年(大正12年)の関東大震災で被害を受け、現在の堂舎は昭和初期に再建されたものである。なお、本尊の弁財天は最澄の作と伝えられている。
甲州街道高井戸から分け入り久我山牟礼村を経て参道に至る道筋には、要所要所「井のかしら弁天道」などの道標が建てられている。特に参道入り口・黒い参門の横にある1745年(延享2年)の「神田御用水源井頭弁財天」と刻まれた棹石は長さ2.4mと堂々としたものである。
弁天堂の周囲には、「我こそ弁天の化身だ」と申して池に入水し白蛇になった松原の3枚鱗が首にある娘を偲んで供養のために作られたと伝えられる宇賀神像(年代不詳)、1771年(明和8年)の狛犬鳥居手水鉢、1817年(文化14年)の石橋(一番組・湯屋講寄進)、1833年(天保4年)石燈篭(伊勢屋伊兵衛=現・にんべんら寄進、など多くの寄進物が見られ、弁天信仰の盛んであったこ感じられる。
七井不動尊
弁天堂の正面から左手奥へ進んだところに、七井不動尊の小さなお堂がある。
井の頭弁財天・wikipedia-photo、「歌川広重『名所雪月花』で描かれた雪景の井の頭弁財天」・wikipedia-photo  (wikipedia・大盛寺より)]

[井の頭伝説・宇賀神像塔
日本神道古来の水神・宇賀神は弁財天と同じく信仰された。明和4(1767)年に寄進された宇賀神像は上部に人間の顔をつけた蛇がとぐろをまいている。こんな伝説がある。弁天様に願をかけて玉のような女の子を授かった夫婦が、美しく成長した娘を連れて弁財天にお参りに行くと、娘は池に飛び込み、みるみる白蛇に変わってしまった。夫婦はせめてもの供養にと宇賀神像を作ったという。
三鷹市指定文化財の宇賀神象は井の頭弁財天で見られる。  (「三鷹市 |市内の各スポット解説(井の頭エリア・牟礼エリア)」より)]

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](井の頭の池 弁天の社・wikipedia-photo)

歌川広重・「名所雪月花 井の頭池弁財天の社雪の系」(ボストン美術館)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「井頭池弁財天社」(11-33)、「井頭弁財天社井頭池解説」(11-34)
井頭池弁財天社(拡大図)

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井之頭弁財天太鼓橋前のストリートビューです。

井之頭弁財天拝殿前のストリートビューです。

宇賀神像前のストリートビューです。