マーカーは北町浅間神社です。
北町浅間神社
[北町浅間神社は、明治前後の創建です。神社上に、清性寺跡と白狐稲荷が、また近隣に阿弥陀堂があることから、清性寺が金乗院に吸収され廃寺となった頃の創建をうかがわせます。
『本社の創建は明らかでない。当社の神社明細書によると「明治前時代より此地に築かれたと由来伝えられ、将軍(5代徳川綱吉)当寺、町をあげての祭礼もありたりという。富士浅間神社の霊山、こと更に敬神厚し。宿場の町として賑わいたりしも、氏戸数は35軒余で、南部4、50軒あり。明治前に第1回の築造、明治初年に第2回の築造、街内の発展に伴い、明治3年10月第3回の築造に、立派なものに成功せり」とある。川越街道の宿場町として賑わった土地柄、江戸時代から祭礼は行われたであろうし、さらに富士大山道の道筋であることからも、当社が庶民信仰の中心になったと考えられる。(練馬区の神社より)』 (「猫のあしあと – 北町浅間神社」より)]
[境内入口に、旧川越街道下練馬宿の解説板がある。
旧川越街道下練馬宿
この道は、戦国時代の太田道灌が川越城と江戸城を築いたころ、二つの城を結ぶ重要な役割を果たす道でした。
江戸城には中山道板橋宿平尾の追分で分かれる脇往還として栄えました。日本橋から川越城下まで「栗(九里)より(四里)うまい十三里」とうたわれ、川越藷(いも)の宣伝にも一役かいました。
下練馬宿は「川越道中ノ馬次ニシテ、上板橋村ヘ二十六丁、下白子村ヘ一里十丁、道幅五間、南ヘ折ルレバ相州大山ヘノ往来ナリ」とあります。川越寄りを上宿、江戸寄りを下宿、真ん中を中宿とよびました。
上宿の石観音の所で徳丸から吹上観音堂への道が分かれています。
通行の大名は川越藩主のみで、とまることはありませんが、本陣と脇本陣、馬継の問屋場などがありました。旅の商人や富士大山詣、秩父巡礼のための木賃宿もありました。
浅間神社の富士山、大山不動尊の道標、石観音の石造物に昔の面影を偲ぶことができます。
平成六年三月 練馬区教育委員会 (「川越街道餐歩・・・第1回」より)]
「下練馬の富士塚(北町浅間神社) – Google Map 画像リンク」
カメラ北北東方向が北町浅間神社鳥居です。