地名由来碑(分梅)

マーカーは地名由来碑(分梅)です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図を見ると現在の分梅駐在所交差点から東方向(現在鎌倉街道と称される道で府中から府中街道、府中街道は江戸時代に整備。)と、北方向(鎌倉街道・陣街道、現在の分梅通り)が伝鎌倉街道先で合流しているのがわかります。

分梅(ぶばい)
[分梅(ぶばい)は、現在の分梅町二、三、四、五丁目の一部(鎌倉街道~分梅通り沿い)に集落の中心があった村落です。この集落は本町に属しており、「新編武蔵風土記稿」(幕末の地誌)には「本町」の小名としてその名が見えます。分梅はもとハケ上の上分梅(八雲神社辺り)に集落の中心がありましたが、多摩川の流れが南に移った後分倍河原に進出したといわれています。古くは「分倍(陪)」や「分配」の字があてられ、「ぶんばい」と呼ばれていたこともありますが、近世以降には「分梅」が多用されています。
 地名の起こりは、不明ですが、この地がしばしば多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫が少ないために。口分田を倍に給した所であったという説があります。  (「地名由来碑 – 中河原都市開発株式会社」より)]

[「分梅」と書いて「ぶばい」と読む。新田義貞鎌倉幕府に反旗を翻した「分倍河原の合戦」の地として知られるが、現在の地名には「梅」が使われる。
 周辺の遺跡発掘調査によると、分梅町あたりには、奈良平安時代から人が住んでいた。鎌倉室町時代の文献には「分倍」や「分陪」「分配」といった集落名で現れる。「ぶんばい」と呼ばれていたという説もある。
 この時期の表記のばらつきについて、府中市郷土の森博物館学芸員の小野一之さん(47)は「当時は地名にどんな漢字をあてるか、さほどこだわらなかったようだ」と説明する。
 では、そもそも「分倍」などと表された地名の由来は何なのか。
 一説には、七世紀に班田収授法が施行され、人民に口分田が支給されたが、多摩川のはんらんが起きる分梅町地域は収量が少なく、口分田の分け前が倍だったため、とされる。
 同市教委文化財担当副主幹の英太郎さん(45)は「分梅町あたりには、多摩川と分流した用水の取り入れ口がある。『流れを分ける』『物資を分配する』という意味から来た可能性も」と推察する。
 「分梅」の表記が現れるのは、江戸時代の文献からだ。英さんは「鎌倉街道沿いの宿場だったため、歌人も立ち寄っただろう。平和な時代になり、風流な梅の字をあてたのかも」と思いをはせる。
 戦国の世が過ぎ、平穏への願いが地名に込められたのか。古戦場としての名残は、JRと京王線の駅名「分倍河原」に残っている。(北川成史)  (「東京新聞:<地名編>分梅町(府中市) 時代は移り 風流な名に:東京通:東京 …」より)]

カメラ位置は分梅駐在所交差点で、カメラ南方向緑地内に分梅の地名由来碑があります。