栗原家長屋門

マーカーは栗原家長屋門です。

栗原家長屋門
[栗原家は代々、旧上石神井村の名主を務めた旧家で、かつては石神井城や石神井風致地区などをふくむ広大な土地を所有していました。
そのことから、栗原鉚三等が石神井村村長等を歴任し、現在の練馬区の基礎を構築しました。現在も石神井公園の歩行ルートとして、栗原家長屋門(現在も住居門として使用)が練馬区観光協会ガイドマップに掲載されています。
この長屋門は、明治初期の建築と伝えられ、桁行7間(約12.7m)、梁間2間(約3.6m)入母屋造り、トタン葺き(当初は、茅葺き)で、軒を深く突き出した「せがい造り」は当家の高い格式を示しています。
国道から長屋門正面に入る専用通路脇には、現在でも防空壕跡が残されています。
※せがい造り(せがい出し梁り造り)
深い軒先をつくるため、本桁から梁を突き出して桁をのせ、この部分に天井を張る構法で、格式ある家の象徴です。
軒を長くすることで、強い風雨や陽射しを遮る効果があります。機能性と重厚感のある伝統工法です。  (「遠藤宗家オフィシャルホームページ|江戸幕府職制表」より)]

栗原家文書
[上石神井村の名主、石神井村の村長などを勤めた栗原家に伝わっていた文書(もんじょ)類です。天保2年(1831年)の「議定一札之事(ぎじょういっさつのこと)(板橋宿代助郷御免除相願度ニ付(いたばしじゅくだいすけごうごめんじょあいねがいたきにつき))」から昭和8年(1933年)の「石神井案内」まで52点が現存しています。
 江戸時代の文書は、天保期(1830~1844年)の助郷(すけごう)や慶応4年(1868年)の信忠隊三宝寺江止宿諸入用覚帳(しんちゅうたいさんぽうじへししゅくしょにゅうようおぼえちょう)」など旧幕府諸隊に関わるものが残っています。近代の文書では、明治41年(1908年)の「御願(おんねがい)(豊島氏貴重品池中(ちちゅう)探索ニ付)」、昭和6年(1931年)の「東京府立公園設置願」など石神井村に関するものが伝わっています。また、江戸時代の上石神井村絵図面や地租改正事業に伴い作成されたと考えられる明治初期の上石神井村地引絵図などの絵図、地図も多く残されています。
 江戸後期以降の上石神井村・石神井村の様相を伝える文書類が残り、地域の歴史を知ることのできる資料です。
 平成16年度区登録  (「栗原家文書 (くりはらけもんじょ):練馬区公式ホームページ」より)]

カメラ北北西方向が栗原家長屋門です。