観音寺

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観音寺
[観音寺の創建年代は不詳ながら、戦国時代に八王子滝山城の鬼門として中藤村に創建したと伝えられ、中藤新田が享保年間 (1716~35)に開発された際に当地へ引寺したといいます。
●国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」による観音寺の縁起
福寿山無量聚院観音寺は神明社の南側に位置し新義真言宗豊山派に属する寺院で、正観音本尊とします。南北に延びる崖線の際に山門を開き、北側に鐘楼、正面奥に本堂等を配し、いずれも西面します。
中藤新田は享保 (1716~35)年間の開発とされ、親村の中藤村(現武蔵村山市)が 3組に分かれており、この内佐兵衛組と源蔵組が当新田の開発に当たりました。元文元 (1736)年の「中藤村新田検地帳」によれば、源蔵組の名請人が観音寺とされ、除地としては寺の敷地となる堂舗900坪、墓所450坪が記されます。
この寺は伝承としてもともとは戦国時代、八王子市の滝山城の鬼門として中藤村に建立されたものを引寺したとされ、観音寺の字も残るとされます。「観音寺建立明細記録」(明治時代写)によれば、寛保2 (1742)年に念仏の寄進、寛延 3(1750)年に材木、茅の寄進、宝暦6(1756)年に入仏供養があったとするため、開発の初期には小規模な寺院であったものが、このころまでには寺勢の整ったものと考えられます。但し、観音寺は幕末期から明治時代初期にかけて無住の時代があり、この間の記録は明らかではありません。(「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」より)
●新編武蔵風土記稿による観音寺の縁起
(中藤新田)観音寺
除地、二段、村の東寄にあり、郡中中藤村真福寺末、新義真言宗、福壽山蓮華院と號す、客殿七間半に五間西向なり、門柱間八尺、門の前に石階二十級あり、本尊観音木の坐像長三尺、開山廣天寂年を傳へず。
鐘楼。本堂に向ひ左の方にあり、八尺四方、鐘は近き比鋳造せり。(新編武蔵風土記稿より)  (「観音寺|国分寺市西町にある真言宗豊山派寺院 – 猫の足あと」より)]

川崎平右衛門及び観音寺中興開山供養塔(観音寺)【市重要有形文化財】

観音寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向が観音寺山門です。