マーカーは地名由来碑(分梅)です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図を見ると小平村の上の道路が青梅街道で、「小」と「平」の間の道が鎌倉街道になります。
鎌倉街道案内板
[小川村開発以前の小平はススキの生い茂る広漠たる原野であった。この原野に天平の昔(730年)頃から、府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ1本の官道がひらけていた。この道がその後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くにおよび、鎌倉街道と呼ばれるようになった。明治にはいり廃道となったが千数百年の歴史を有するこの道筋には多くの史跡と伝説が残っている。
小平市域の道程は、わずか2キロメートルに過ぎないが、上水本町に「二つ塚」と呼ばれる一里塚道標の跡地があり、その地から北に青梅街道を横切ったところに小川村開発発祥の地「石塔が窪」(せきとうがくぼ)の地名がある。
これよりさらに北、東村山市と境を接するところに「九道の辻」の名所がある。その昔、九本の道が交差しており、元弘の変の時に新田義貞が鎌倉への道に迷い、この道沿いに1本の桜を植えて鎌倉街道の案内にしたという。また、道筋に場所は明らかではないが、2つの「まいまいず井戸」があったといわれている。
小平市教育委員会 小平郷土研究会 (「恋ヶ窪から久米川へ 2 – asahi net」より)]
カメラ南南東方向に鎌倉街道案内板があります。