マーカーは阿弥陀堂です。
阿弥陀堂と千川家墓所
[この阿弥陀堂は、『新編武蔵風土記稿』に「阿弥陀堂ニ 一ハ金乗院持、 一ハ清性寺持ニテ弥陀ハ春日ノ作ナリ」とあるうちの後者に当たります。清性寺は明治に廃寺となり、金乗院と合併しました。本堂の釣鐘は文政3年(1820)のものですが、銘文に「神明山清性寺持阿弥陀堂」と記されています。
墓地には千川家累代の墓があります。千川家は千川上水開設の功労者として知られています。
千川上水は元禄9年(1696)、江戸下町方面の飲料水として玉川上水から分水された水道で、工事には徳兵衛・太兵衛の二人が当たりました。私費を投じて工事を完成させた功績により、両人は江戸幕府から名字帯刀を許され、千川家の姓を賜りました。
開通から10年後の宝永4年(1707)、上水は附近20か村の農民の願いで、灌漑用水として利用できるようになりました。両人の子孫は代々下練馬村(現在の北町)に住み、千川上水の取締役として維持管理に努めました。
この墓所には初代徳兵衛から数えて3代目の源蔵以下4代善蔵、5代仙輔、6代民蔵、7代右保などの墓が建っています。
平成21年(2009)3月 練馬区教育委員会 (「東京都練馬区の歴史 阿弥陀堂と千川家墓所 」より)]
「阿弥陀堂の半鐘(あみだどうのはんしょう):練馬区公式ホームページ」
千川家の墓
[千川上水は、本郷、下谷、浅草方面の飲料水として元禄9年(1696年)に玉川上水から分水された水道です。設計者は河村瑞軒(1617年~1699年)と伝えられ、仙川村出身と伝えられる徳兵衛、太兵衛の2人が工事を請け負いました。分水口から巣鴨までの費用は、1千340両余りを要し、幕府が支出したのはこのうち860両余りに過ぎませんでした。そのため、2人は私費を投じて工事を成し遂げました。徳兵衛、太兵衛両人は、その功によって、千川の姓と帯刀を許され、その子孫は代々千川上水の取締役を務めました。この千川家は、3代源蔵の時に下練馬村(現在の北町2丁目)に移り住みました。阿弥陀堂墓地内には、3代源蔵(明和4年没)、4代善蔵(天保5年没)、5代仙輔(天保8年没)、6代民蔵(天保11年没)、7代右保(明治27年没)などの墓石が建っています。画像リンク
平成8年度区登録 (「練馬区ホームページ – 千川家の墓 (せんかわけのはか)」より)]
カメラ西北西方向が阿弥陀堂と千川家墓所入り口です。
阿弥陀堂と千川家墓所入り口(Google Map 画像)
阿弥陀堂と千川家墓所案内板(Google Map 画像)