光福寺

マーカーは光福寺です。

江戸御場絵図」(絵図は東西方向を軸に描かれていますので、絵図を回転して南北を軸にすると見やすくなります、南北軸にした絵図で、中央下方向・「西小松川」右上方向、元佐倉道中右に光福寺が描かれています。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で、千葉街道、五分一橋下に描かれる「卍」が光福寺です。

光福寺
[光福寺は、海成坊が天文元年(1532)に開山、13世宥昶阿闍梨(承応3年1654年寂)が中興、通称「五分一不動尊」または「いちょう寺」と呼ばれているといいます。
●江戸川区教育委員会掲示による光福寺の縁起
新義真言宗で長松山延命院といい、通称「五分一不動尊」または「いちょう寺」と呼ばれています。天文元年(1532)海成坊が開山し、本尊に春日仏師の作と伝えられる阿弥陀如来坐像がまつられています。中興は宥昶法印で承応3年(1654)に入寂しました。
境内の不動堂に「五分一不動」と称される不動明王と「衣替観音」と呼ばれる正観世音菩薩がまつられています。(江戸川区教育委員会掲示より)
●新編武蔵風土記稿による光福寺の縁起
(西小松川村)光福寺
新義真言宗、上小松村正福寺末、長松山延命院と号す。本尊弥陀長2尺5寸春日の作。外に観音の像一体あり。これは当寺の末観音寺の本尊なりしが、観音寺廃せし後当寺へ移し置く、長1尺4寸5分行基の作。縁起によるに此像は開山海成房初学の時より奉持せしものにて、当寺草創の主となれるもこの観音の霊夢によると云ふ。また当寺十三世宥昶阿闍梨、彼観音の告を蒙り中興して法流の寺となし、寺務連綿せしに年月を経て堂舎廃壊せり。茲に承応3年宥昶の親属にて矢澤氏と云檀越、祈願の事あり。この像を己が家に移せしに怪異の事多かりければ、また当寺に遷座せしむと云。起立は天文元年なるよし。過去帳に開山海成房は元禄8年まで165年と記せり。
閻魔堂
不動堂(新編武蔵風土記稿より)  (「光福寺|江戸川区松島にある新義真言宗寺院 – 猫の足あと」より)]

光福寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向が光福寺総門です。