徳島藩蜂須賀家下屋敷(砂村屋敷)跡

マーカーは北砂五丁目団地です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP429・コマ番号258/553から徳島藩屋敷の変遷について記載されています。P429・コマ番号258/553「下屋敷 小名木川 南葛飾郡」がこの地になります。

[高知県立図書館には宮地文庫と呼ばれる寄贈資料が所蔵されています。この資料群の中に、「江戸日記」と題箋が付された帳面が見られます。この日記は土佐藩の儒者宮地仲枝(みやじなかえ)が、江戸出府に際して、江戸までの行き来や江戸での活動を記したものです。
 この宮地仲枝が残した「江戸日記」では、天保3年(1832)から4年にかけて、築地にあった中屋敷を活動拠点として、藩内での講義や学者・ 文人との交流の様相などを窺うことができます。彼の日記には、天保4年2月 15日に深川にあった阿波徳島藩蜂須賀家屋敷を訪れたことが記されています。
 その記事によれば、蜂須賀家の黒部文蔵なる人物の案内で、阿波藩の御座船と御庭を見学したとあります。蜂須賀家は〔江戸切絵図〕. 深川絵図によれば、 「深川八まん前」(絵図四つ切左下・富ケ岡八幡宮左下)と「本所小名木川」(絵図中央右端・小名木川下)の2カ所に下屋敷を持っていたことが確認できます。この御座船を見学した屋敷は、 「深川八まん前」でした。
仲枝は、 「深川八まん前」の屋敷(松平阿波守)を出て、洲崎を経由して十間川沿いに歩いて砂村の御鷹野の場所へ向かいます。ここでは、御鷹野の管理をしていた名主勘太郎に案内を受け、麦飯を食べたことが記されています。この御鷹野は土佐藩の砂村屋敷周辺にあったものと思われます。屋敷周辺には八右衛門新田、亀高新田などがあり、勘太郎がどこの村の名主であったかは不明です。
その後、小名木川沿いにあった蜂須賀家の屋敷にも立ち寄り、庭園を見学します。そして、小名木川を船で渡って、大島村にあった五百羅漢寺亀戸天神、本所法恩寺前、両国橋を経由して築地の中屋敷に戻っています。  (「江戸情緒 深川 – 江東区」より)]

国際日本文化研究センター – 本所深川繪圖(安政5・1858年)」(絵図下中央、小名木川左に松平阿波守(蜂須賀斉裕)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 深川十万坪ヨリ中川海手迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(コマ番号2/4・絵図四つ切左下、小名木川右、持宝院左に松平阿波守(蜂須賀斉昌)抱屋敷が描かれています。)

カメラ位置は北砂五丁目団地前で、カメラ位置付近一帯が徳島藩蜂須賀家下屋敷(砂村屋敷)跡になると思います。