マーカーは仙気稲荷神社です。
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「江東区の文化財城東編」による仙気稲荷神社の由緒
[仙気稲荷神社(南砂3−4−2)
「神社明細帳」によれば、万治二年(一六五九)当所開墾の際、村中安全五穀豊穣を祈願のために祀ったという。『南葛飾郡神社要覧』によれば、大智稲荷又は砂村稲荷と称し、万治二年五穀豊穣熱病消除のために当地開墾のときに海岸堤に祀るという。神職荒井家に残る由来記に、江ノ島明神奥の院を波除のために堤に遷座し、祭神は大市比売命、穀神稲倉魂、むらの病除けのため須佐之男命を勧請した。大市比売稲荷とも大智稲荷とも称した。開発成就、五穀成就のために万治年間(一六五八~六一)に社頭に柴燈護摩を修行した。ここは修験草々の地であった。文政八年(一八二五)に長州藩の抱屋敷となり、稲荷の社地八〇〇坪の地税を除かれ、社殿・祈願料も寄付され、その後、この地は川越城主松平大和守(松平斉典)に譲られ、長州家から口達申次があり、境内地の一般地税が除かれた。次いで雲州松平少将(出雲国松江藩主松平(斉斎)斉貴)に譲られ、松平斉貴はことのほか信仰され神前に燈寵を一対奉納されたという。この社は長州藩・川越藩・松江藩などの抱屋敷地となり、各武家から深く信仰されていたようである。『松江市史』によれば、松平斉貴は文化一〇年(一八一三)に生まれ、文政五年(一八二二)に藩主となり、嘉永六年(一八五三)まで治め、鷹狩りを好み弘化二年(一八四五)に砂村新田数千町の屋敷を買い上げたという。鷹狩りのための屋敷が砂村稲荷の地であった。
文化年間(一八〇四~一八)に出された『遊歴雑記』の初編之下四一に「砂村新田大知稲荷大明神」として、大知稲荷は砂村新田の川端より入り、ネギ畑の畦を経て、南側波除堤の際にあり、幟等四五本立て粗末な仮官で、疝気の願いが叶う稲荷と言い伝えられ、男女とも腰より下の煩いは何でも疝気として、願えば噸と平癒すると噂していたという。『武江年表』によれば、文化年間に砂村王地稲荷社へ、疝癪を患う者祈願して、霊験を得るということで参詣することが始まった。大知稲荷は細川家の下屋敷庭普請があり、植木屋の奉納で稲荷の社頭を庭のようにつくり、一般のものも見られるようにしたという。文政八年(一八二五)に毛利家より疝気稲荷神職への書き付けが残っており、そこには、長次郎、佐平次、長七所持の畑屋敷建星を譲り受け、抱屋敷とするとある。長次郎所持の疝気稲荷社は諸人の信仰を集めているので、これは除く。参詣人に不都合がないように取り計らう。祭礼などをするときは一応屋敷に届けるようにと記されていた。
昭和二〇年の戦災で社殿を焼失し、一時仮宮が建てられたが、昭和四二年にそれまでの神職が習志野市に転出し、跡地に都営住宅が建てられた。昭和四五年、残された者たちが再度仙気稲荷神社を再建し、保存会を結成し維持している。(「江東区の文化財城東編」より) (「仙気稲荷神社|江東区南砂の神社、旧仙気新田村鎮守 – 猫の足あと」より)]
松平斉斎
[松平 斉斎(まつだいら なりとき)は、江戸時代後期の大名。出雲国松江藩9代藩主。官位は従四位上・出羽守、左近衛権少将。直政系越前松平家宗家9代。藩主在任中は松平 斉貴を名乗った。
文化12年(1815年)3月18日、8代藩主・松平斉恒の長男として誕生。初名は直貴(なおたか/なおたけ)。文政5年(1822年)3月、父の死により同年5月23日に家督を継いだ。文政9年(1826年)2月25日、元服し、11代将軍・徳川家斉の偏諱を授かって斉貴(なりたか/なりたけ)に改名、藩主在任中はこの名を名乗る。従四位下に叙位、侍従に任官、出羽守を兼任する。幼年のため、家臣の塩見宅共と朝日重邦(朝日茂保の子)の後見を受けた。斉貴の代の松江藩は天保の大飢饉を始めとする天候不順や水害、さらには領内では火事など天災が相次ぐ多難の時代であった。ところが斉貴は幕府に12万両もの献金を行なった上、相撲や鷹狩などに興じて藩財政を極度に悪化させた。この間、天保9年(1836年)12月16日、左近衛権少将に転任する(出羽守は元のまま)。また弘化4年(1847年)9月23日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任する(出羽守は元のまま)。
嘉永6年(1853年)9月5日、藩財政の悪化により、家臣団の間で斉貴廃立の動きが表面化して、斉貴は強制的に隠居させられた(主君押込)。そして、美作国津山藩から迎えた婿養子の定安を新たな当主として擁立された。隠居後は諱を斉斎(なりとき)に改め、文久3年(1863年)3月14日、49歳で死去した。 (wikipedia・松平斉斎より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 深川絵図(嘉永五年・1852年)」(絵図右下に松平出羽守(松平斉貴)下屋敷が描かれ、屋敷地の右上に大知稲荷と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 深川十万坪ヨリ中川海手迄 : 天保一一(1840)年八月ノ形」(コマ番号3,4/4・絵図右上、松平大膳大夫町並屋敷地が、弘化2年(1845)に松江藩松平(越前)家松平斉貴に譲渡されます。)
「「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」の「1896~1909年」地図」(平井新田右に習志野市に移転前の稲荷神社が描かれています。現在の仙気稲荷神社はこの少し左方向になります。)
カメラ位置は南砂三丁目第二アパート2号棟北側で、カメラ西方向に現在の仙気稲荷神社が見えます。