久保田新田藩佐竹家上屋敷跡

マーカーは久保田新田藩佐竹家上屋敷跡です。

関連リンク – 久保田新田藩佐竹家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP372・コマ番号230/553から岩崎藩(久保田新田藩)屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 鳥越」がこの地になります。

久保田新田藩(岩崎藩)佐竹家
[岩崎藩(いわさきはん)は久保田藩の支藩。明治維新以前は久保田新田藩(くぼたしんでんはん)あるいは秋田新田藩(あきたしんでんはん)といった。元禄14年(1701年)に久保田藩第3代藩主・佐竹義処が弟の義長に新田2万石を蔵米で分知したことに始まる。以後、義長の官位を受け継ぐ佐竹壱岐守家が治めた。
特定の領地を持たず、久保田藩が蔵米を支給する完全な支藩であり、本藩との結びつきは強かった。藩主は江戸定府で、浅草鳥越に上屋敷を構えて居住していたため、鳥越様と呼ばれた。公家衆御馳走役駿府加番を勤めた際には久保田藩から援助を受けていたが、久保田藩の財政悪化に伴って蔵米の支給が滞ることがあった。
幕末王政復古により江戸定府の必要がなくなると、8代藩主義諶も国入りし、慶応4年(1868年)3月、河辺郡椿台(現在の秋田市雄和椿川)に独自の椿台陣屋を構えることになった。このため藩士は「椿台藩」を自称した。しかし同年7月に戊辰戦争秋田戦争)が勃発したため、実際には陣屋を建設する暇はなく、久保田藩とともに奥羽鎮撫隊(新政府軍)側に立って庄内軍と交戦し、椿台は激戦地となった(椿台の大会戦)。明治2年(1869年)6月、改めて雄勝郡岩崎(現在の湯沢市岩崎)へ移転して「岩崎藩」と改称し、周辺の土地を久保田藩から割譲され、初めて所領を持った。明治4年4月に岩崎藩陣屋を構えたが、同年7月の廃藩置県のため、僅か3ヶ月しか存続しなかった。  (wikipedia・久保田藩#岩崎藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 東都浅草絵図(文久元[1861]改正)」[絵図上四つ切左上に佐竹左近将監(佐竹義堯)上屋敷が描かれています。]

拾五之二[2](弘化二年・1845年)」[絵図四つ切右下に佐竹壱岐守(佐竹義純)と描かれています。]

カメラ南東方向が久保田新田藩佐竹家上屋敷跡になります。