久居藩藤堂家上屋敷跡

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関連リンク – 久居藩藤堂家下屋敷跡

久居藩藤堂家
[久居藩(ひさいはん)は、伊勢国久居周辺(三重県久居市、現在は合併により津市)を支配した津藩の支藩。
寛文9年(1669年)、津藩の第2代藩主・藤堂高次が隠居して家督を子の藤堂高久に譲ったとき、次男の藤堂高通に5万石を分与して津藩の支藩である久居藩を立藩した。しかし城主格の大名でありながら、築城を許可されず、久居陣屋と城下町を建設するに留まった。
久居藩は高次が本家の嗣子が絶えた場合の無嗣子による改易に備えて設置した藩である。元禄10年(1697年)に高通の跡を継いだ藤堂高堅は、3000石をさらに分与されて5万3000石を領する藩主となる。久居藩の内部状況であるが、常に津藩の本家の慣習を踏襲し、相談も行なうこととなった。しかし5回にもわたって江戸藩邸が焼失し、さらに連年にわたって凶作が相次ぐなどの悪条件も重なって、第5代藩主・藤堂高豊、第6代藩主・藤堂高雅の頃から財政悪化が顕著となった。
そのため、倹約令を出して俸禄の借り上げを行なったが、その後も天明の大飢饉天保の大飢饉甲州の諸川の手伝い普請などから、遂に財政は破綻寸前となった。しかし名君で有名な第12代藩主・藤堂高兌の藩政改革により、藩財政は再建された。しかし高兌の死後(高兌は本家の藩主となっていた)、再び久居藩は財政が悪化し、第15代藩主・藤堂高聴は新田開発や雲出川の治水工事に取り組むことで藩政を再建しようとした。この改革は成功し、再び久居藩は再建された。
幕末期は本家の津藩と共に天誅組討伐に参加した。明治2年(1869年)、第16代藩主・藤堂高邦版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で久居藩は廃藩となった。  (wikipedia・久居藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 東都下谷絵図(嘉永4[1851]/文久2[1862]改正)」[絵図四つ切左下に藤堂佐渡守(藤堂高聴)上屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十六年・1844年)」[絵図四つ切右上に藤堂佐渡守(藤堂高聴)が描かれています。]

カメラ北東方向が久居藩藤堂家上屋敷跡中心部にある台東一丁目区民館です。