安中藩板倉藩中屋敷跡

マーカーは安中藩板倉藩中屋敷跡です。

関連リンク – 安中藩板倉家上屋敷跡(開成所跡・学士会館)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP785・コマ番号436/553から安中藩屋敷の変遷について記載されています。P787・コマ番号437/553「中屋敷 神田佐久間町」がこの地になります。

安中藩板倉藩
[天和元年(1681年)5月21日、下野内から板倉重形が1万5000石で入った。重形は貞享3年(1686年)7月26日に死去し、跡を重同が同年9月25日に継いだ。重同は元禄15年(1702年)7月に陸奥泉藩に移され、入れ替わりで内藤政森が2万石で入った。この政森の代である享保12年(1727年)4月、潮藤左衛門による年貢減免運動が起こった。第3代藩主・政苗の代である寛延2年(1749年)2月、三河挙母藩に移され、代わって遠江相良藩から板倉重同の子の勝清が2万石で入った。
勝清は明和4年(1767年)7月、西の丸老中となったため、1万石を加増された(明和6年(1769年)には老中)。板倉家の歴代藩主には学問に秀でた人物が多く、第4代藩主・勝尚の代である文化5年(1808年)3月、藩校・造士館が創設された。第5代藩主・勝明は学者藩主と称され、「西征起行」や「東還紀行」など多くの著作を残し、藩内の学問奨励にも尽力した。しかし安中藩では天明の大飢饉などから次第に財政難と領内荒廃が深刻化した。幕末期には和宮降嫁のために中山道の守備を務めた。「偽官軍事件」として有名な赤報隊事件はこの安中で起こっている。
明治4年(1871年)の廃藩置県で、安中藩は廃藩となった。
安中藩出身の有名人としては、京都市に同志社英学校(現在の同志社大学)を創設した新島襄がいる。  (wikipedia・安中藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図四つ切左下・に藤堂和泉守上屋敷右下に板倉伊予守(板倉勝明)中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保十六年・1844年)」(絵図四つ切右上・藤堂和泉守上屋敷右上に板倉伊予守(板倉勝明)中屋敷が描かれています。)

カメラ南方向道路を含む両サイドが安中藩板倉藩中屋敷跡になると思います。