烏山藩大久保家上屋敷跡

マーカーは烏山藩大久保家上屋敷跡です。

関連リンク – 烏山藩大久保家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP510・コマ番号299/553から烏山藩屋敷の変遷について記載されています。P511・コマ番号299/553「上屋敷 下谷三味線堀」がこの地になります。

烏山藩大久保家
[烏山藩(からすやまはん)は、下野国那須郡烏山(現在の栃木県那須烏山市城山)に存在した藩。藩庁は烏山城に置かれた。また、大久保家が藩主となった享保年間以降は相模国鎌倉郡高座郡大住郡愛甲郡の一部も支配し、愛甲郡厚木町(現神奈川県厚木市)に厚木役所(厚木陣屋)を置き、相模国内支配の拠点とした。
享保10年(1725年)10月18日、稲垣昭賢志摩国鳥羽藩へ移封となり、若年寄近江国内に1万5000石を領していた大久保常春が2万石で入り、以降は大久保家が定着した。後に常春は老中に栄進したため、役料として1万石を加増された。常春は領民と家臣に対して法律を制定することで藩政を固めた。しかし第3代藩主大久保忠卿の治世末期から農村荒廃化や財政難が深刻化し、第4代藩主大久保忠喜は倹約令、荒地改めなどによる藩政改革を行ったが、効果はなかった。第5代藩主大久保忠成も農村支配の強化、結婚奨励政策などによる「厳法」と言われる藩政改革に着手したが、やはり効果はなかった。第6代藩主大久保忠保菅谷八郎右衛門を家老に登用し、さらに二宮尊徳から報徳仕法などを学ぶことで藩政改革を目指した。天保10年(1839年)12月17日 復興事業を先導していた菅谷八郎右衛門、辞職願提出、復興事業は中断する。菅谷は同25日に隠居を命ぜられる。翌天保11年(1840年)12月11日、菅谷は復興事業反対派に圧される形で失脚し、領外追放となる。その後、帰藩を許され復興事業再開のため、200石で家老職に復帰する。弘化2年(1845年)3月、菅谷は隠居、復興事業には3年間復帰していたが、結局挫折した(嘉永5年(1852年)1月9日死去)。
幕末期は藩の領内が荒廃して確立していなかったことなどもあり、あまり目立ったことはなかった。明治2年(1869年)に版籍奉還が行われ、明治4年(1871年)7月に廃藩置県で烏山藩は廃藩となる。  (wikipedia・烏山藩より)]

東京都立図書館アーカイブ – 東都浅草絵図(文久元[1861]改正)」[絵図上中央付近に大久保佐渡守(大久保忠美)上屋敷が描かれています。]

拾五之二[2](弘化二年・1845年)」[絵図下中央左に大久保佐渡守(大久保忠保)と描かれています。]

カメラ位置は蔵前小学校通りで、カメラ北方向、道路を含む両サイドが烏山藩大久保家上屋敷跡になります。