中野犬屋敷の跡碑

マーカーは中野犬屋敷の跡のモニュメントです。

中野犬屋敷の跡碑
[中野の犬屋敷
犬屋敷は、5代将軍徳川綱吉が設けた江戸幕府の野犬保護施設で、犬を囲って飼育したことから「お囲い御用屋敷」ともいった。中野4丁目あたりの旧町名「囲町」はこれに由来する。綱吉は「生類憐(しょうるいあわれみ)の令」によって殺生(せっしょう)を禁じ、特に犬の保護策を強行して、江戸郊外の中野に最も大規模な犬屋敷を造らせ、支配役以下多数の役人や医者を置いて、野犬の飼育にあたらせた。犬屋敷は元禄8年(1695)末に収容を開始し、綱吉の死去により宝永6年(1709)に廃止されるまで、15年間存続した。敷地は現在の区役所を中心にJR中央線をはさんで約30万坪(100ヘクタール)に及び、5つの犬囲いには、各数百棟の犬小屋・餌場(えさば)・日除け(ひよけ)場・子犬養育場があって、最盛期には8万数先頭、飼料費は年額9万8千両にも達した。その後、幕府は方針を変えて、雌犬の収容を主体とし、他の近在の農家に飼育料をつけて預けることにした。犬屋敷の莫大な費用は、江戸の商家や天領の農民達の負担で賄われた。
   昭和56年3月  中野区教育委員会  (「気まま歴史散歩‐№142 かこい・犬屋敷跡」より)]


なかの物語 其の五 徳川将軍家と中野 | 中野区公式ホームページ」より

[元禄8年10月に中野の犬小屋建設を開始。普請担当の奉行は御側の米倉氏と藤堂氏、助役に津山藩主・森長成丸亀藩主・京極高或が任命された。森長成は11万坪、京極高或は5万坪を担当し、江戸より西に1里(約4キロメートル)離れた中野の田園に、土居を築き、柵を建て、小屋を造った。
犬小屋用地は、中野村の百姓82人と宝仙寺から田畑・屋敷・芝地合わせて反別23町5反4畝10歩、坪数でいえば7万630坪の土地を御用地として収公して犬小屋の建設地とした(中野村「御用地ニ渡候田畑書貫帳」(堀江家文書C七六))。元禄15年5月の「中野村亥・子両年御用地相渡候反別之覚」(堀江家文書C77)では元禄8、9年の両年で百姓61名と宝仙寺から田畑反別48町9反、14万6717坪収公されたことが記されており、元禄9年には中野村からさらに田畑反別25町3反6畝7歩を御用地として幕府に引き渡したこととなる。「犬小屋御囲場絵図」(堀江家文書S一、元禄10年4月25日作成)によれば、元禄8年には17万9156坪、翌年には10万2330坪の土地で普請が行われ、道路分としてそれぞれ1万1095坪と5071坪も造成された。犬小屋全体の御用地は29万7652坪におよび、中野村だけでなく周辺の高円寺村(現・東京都杉並区)などの土地も収公された。
徳川実紀』元禄8年10月29日条では中野の犬小屋が落成したので大久保の犬小屋担当だった比留間正房にその管理を命じ、11月9日条では寄合番の沢奉実も担当を命じられた。そして、風呂屋方・賄方・小普請手代組頭・細工所同心・寄合番下役・小石川御殿番同心組頭・掃除組頭などの役人11人が配下に置かれた(「柳営日次記」)。同9年正月29日には納戸同心・腰物同心・賄方・細工方・寄合組などから7人が新たに下役人に任じられた(「柳営日次記」)。
同年11月13日条には、中野の犬小屋が完成し、江戸の町から集めた犬を10万匹収容、同月29日条には小納戸の落合道富や石原安種が中野犬小屋の奉行になり、役扶持300俵と同心15人が付けられたと記されている。同年12月15日には森氏や京極氏をはじめとする関係役人が褒美を与えられた(『徳川実紀』第六篇)。
「改正甘露叢」によれば、歩行目付(徒目付)8人と小人目付10人が「当分賄(とうぶんまかない)」として当面の間中野犬小屋の御用を担当し、5人の役人が「当分注進役」を命じられてその連絡役となった。そして中野犬小屋に収容された犬の餌代はその周辺地域から徴収する方針が示された。元禄8年12月22日に、喜多見村の犬小屋に配属されていた小普請の医師2人が中野の犬小屋担当となり、俸禄を賜った(「常憲院殿御実紀」)。この後も、鷹狩が廃止されたことによって廃職となった鳥見職の者が幾人も犬小屋担当へと異動となった(「改正甘露叢」)。ほか、病犬のために、柳沢吉保が抱え医師・丸岡某と幕府小普請組医師林宗久に役扶持を与え、犬小屋侍を命じた。
元禄8年12月7日に丹波国宮津藩藩主・奥平昌成が、来春に増築を完成させるよう、その手伝いを命じられ(「柳営日次記」)、志摩国鳥羽藩藩主・松平乗邑石見国津和野藩藩主・亀井茲親も手伝いを命じられた。元禄10年(1697年)4月には犬小屋とその周辺道路を含めておよそ29万坪余に増築された。同時に四谷の犬小屋は廃止されて中野に一本化させることになり、同年6月22日の町触で四谷犬小屋の解体工事の入札希望者が募られた(『江戸町触集成』三三一七号)。
中野犬小屋の構造
犬小屋は、5つの「御囲場」に分けられ、「壱之御囲」が3万4538坪、「弐之御囲」「参之御囲」「四之御囲」がそれぞれ5万坪、「五之御囲」が5万7178坪、総面積24万1716坪であった(「犬小屋御囲場絵図」。白橋聖子・大石学「生類憐みの令と中野犬小屋」東京学芸大学近世史研究会編『近世史研究』第四号」)。
「元禄九年江戸図」に描かれた「中野御用御屋敷」では、周囲は柵で囲まれ、6つに仕切られた内部は各入口に竹矢来と門が設けられ、門を入ると散らばった犬小屋12棟と役所とみられる建物1棟がある。
支配勘定を務めた大田南畝寛政12年(1800年)にまとめた『竹橋余筆』に収録された帳簿「元禄九子年中野・四谷・大窪御用屋敷新規修復御勘定帳」には、中野の犬小屋の拡張・修復工事経費が記されていた。元禄9年(1696年)の時点で、
1棟25坪の犬部屋・犬餌飼部屋 – 290棟、敷地面積10万坪
1棟7坪5合の日除け所 – 295棟、敷地面積10万坪
1棟6坪の日除け所餌飼所 – 141棟半
その他、子犬養育所 – 459か所、役人居宅 – 8か所、御犬小囲舂屋(つきや)、御役屋敷4ヵ所、御用屋敷長屋4棟・食冷まし所5棟・冠木門8か所・医師部屋・医師居宅・女犬養育所・御側衆・御目付衆・奉行小屋・玄関書院・釜屋・井戸・厩・米蔵・塩蔵・味噌蔵・火の見櫓・冠木門
などがあった。総面積は20万坪超だったが、「子犬養育所」は「御用屋敷の3ヵ所の元御囲内に造った」とあり、5つの御囲のうち3つを解消してその跡地に養育所が造成されていため、当時の犬小屋は東の御囲4万坪と西の御囲6万坪に分かれて運用されていた。御犬部屋には1部屋ごとに長さ7寸・幅3寸5分・厚さ7分の檜の番号札が取り付けられ、広囲いの御犬部屋用に299枚、小囲い御犬部屋用に40枚が用意された。この年には修復のため、大工5万7000人余が駆り出され、工事費用総額は2314貫658匁余(金3万8577両余)と米5529石余となった。
養生のため犬を河原や野辺へ連れ出すこともあり、夜間には手代や下役人が「御囲」内を巡回し警備していた。  (wikipedia・犬小屋_(江戸幕府)#中野の犬小屋より)]

お囲い (徳川 綱吉) – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向に中野犬屋敷の跡のモニュメントがあります。