マーカーは大聖院です。
大聖院
[大聖院の創建年代等は不詳ながら、中世より春日部にあり本山派修験不動院と号していたといいます。年不詳ながら当地へ移転、西向天神社の別当、天台宗本山派の江戸番所を勤めていたといいます。境内には太田道灌の山吹の里に伝説登場する少女・紅皿(べにざら)の墓があります。
●新編武蔵風土記稿による大聖院の縁起
西向天神社別当大聖院
本山派修験京都聖護院末梅松山五大尊寺と号す。世々正大先達職なり。本尊不動、寺宝に太刀一振あり、猫丸と称す。由来詳かならず。
紅皿塚。塚は崩れて断碑のみあり。文字隠滅して読得ず。世俗に語伝ふる紅皿欠皿の舊蹟なりと云。且太田道灌狩して雨に遇し頃、少婦の山吹枝を折て、みのひとつたになき心をさとせしと云伝ふるも、かの紅皿か所為なりなと附会していひ伝へり。(新編武蔵風土記稿より)
●ガイドマップ新宿区の文化財による大聖院の縁起
天台寺門宗の寺院で、梅松山大聖院五大尊寺という。
本寺は不動院といって、西向天神社の別当寺であった。一説によれば、寛正年間(1460年代)に牛込重次が創建したというが、牛込氏に重次という人はいないし、同寺は中世には現在の春日部市にあったことがはっきりしているので、確かなことではない。
西向天神の中興者が玄信大僧都であったことから本山派修験との関係が強かったことがわかるが、大聖院も現在地へ移転する前から本山派に属しており、移転後は同派の江戸番所を勤めている。
江戸時代の大聖院は、聖護院門跡の直末として、天台宗兼正大先達という位置にあり、院家に準ずる格式であった。
明治維新時の神仏分離令で西向天神社と分かれたが、その際、同社に伝わった文書類を継承し、現在でもそれを所蔵している。主なものを列記しておくと、天満宮由緒書、天満宮出自記、東大久保村地誌書上帳、不動明王縁起、大聖院境内図書上、紅皿縁起などがある。
境内は狭く、ほとんど古いものはみあらたないが、ただ一つ、太田道灌の山吹の里伝説で知られる「紅皿の碑」は有名である。この碑は、もとは同寺に隣接する法善寺の崖際にあったもので、崖崩れのために現在地へ移したといい、江戸中期にはすでに現在地にあったことが知られている。(ガイドマップ新宿区の文化財より) (「大聖院|新宿区新宿にある天台寺門宗寺院 – 猫の足あと」より)]
[新宿区指定史跡
紅皿の墓
所在地 新宿区新宿六丁目二十一番十一号
指定年月日 平成十八年八月四日
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(一基)、燈籠(二基)、水鉢(一基)、花立(二基)から構成される。
板碑は区内で唯一のものとなる中世の十三仏板碑である。また、板碑の前には十二代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられ、その存在が広く知られるようになった。
伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し、『御拾遺集』の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中頃成立、展開し、幕末維新期を経て広まっていく様子を知ることができ、伝承、文献も含めた史跡として位置づけられ貴重である。
平成十八年十月 新宿区教育委員会]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 大久保絵図」(絵図左上中央付近に西向天神が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号5/5・絵図中央下方向に「天神 大聖院」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [14]拾九元」(コマ番号4/5・中央付近に天満宮社地別當大極院と描かれている場所が大聖院地になります。)
カメラ東方向が大聖院参道です。
大聖院本堂前のカメラです。
カメラ東方向駐車場に紅皿の墓が駐車場内にあるとの案内板があります。