マーカーは西向天神です。
西向天神
[古くから東大久保村の鎮守社であり、正式には大久保天満宮という。現在でも広い境内を持ち、椎の木などが森をなしている。菅原道真を祀った京都の北野天満宮を勧請したもの。西向天神社という名は、地形上、社殿が西方(京都)を向いていたからつけられたものである。他に棗(なつめ)天神という俗称もある。これは、寛永年間(1630年代)に、三大将軍徳川家光が鷹狩りに来た際に、荒廃していた当社を見て、社殿等の修復のために金の棗の茶入れを下賜して再興を促した、という伝承によるもの。また、慶安から天和年間には、桜の名所であったことも書物に残されています。境内には富士塚があります。 (西向天神社 – 新宿観光振興協会より)]
[西向天神社は、安貞2年(1282)に明恵上人(1173-1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。天正年間(1570年代)に兵火で全焼していたのを聖護院宮道光法親王が東国下向の折に、大僧都玄信に命じて再興させたといいます。その後荒廃していましたが、寛永年間(1630年代)に徳川家光の鷹狩りの祭に、黄金の棗を下賜されたことから棗の天神ともいわれます。東大久保村の鎮守、明治5年には村社に列格していました。 (「猫のあしあと」より)]
[都営地下鉄大江戸線東新宿駅の東、徒歩5分。職安通りから南に入った高台にある。正式名称は大久保天満宮で、安貞2年(1228年)北野天満宮を勧請して創建された。古くから東大久保村の鎮守社であり、菅原道真を祭っている。社殿は西の太宰府の方に向いて建っているため、西向(にしむき)天神と呼ばれている。クスノキやケヤキなど木々が茂る境内には太田道灌の山吹の里伝説で知られる紅皿碑と富士塚があり、誰もが子どもの頃に遊んだ昔懐かしい神社の面影をとどめている。 (「東京ガイド」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 大久保絵図」(絵図左上中央付近に西向天神が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号3/5・絵図中央下方向に「天神 大聖院」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [14]拾九元」(コマ番号4/5・中央付近に天満宮社地別當大極院と描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「大窪天満宮」(11-10)、「大窪天満宮解説・右ページ4行目から」(11-11)
大窪天満宮(拡大図)
絵本江戸土産 – 大久保西向天神(拡大図)
「西向天神社(東大久保富士) – Google Map 画像リンク」、「山吹坂 – Google Map 画像リンク」
カメラ東南東方向が西向天神参道です。
西向天神拝殿前のストリートビューです。