玉川上水

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    玉川上水概略図(「東京都水道局ホームページ」 – 「史跡玉川上水」より。)

      
    玉川上水緑道公園図(スクロールしてご覧ください。「むさしのの都立公園ホームページ」 – 「玉川上水緑道」より。)

      
    「東京都立中央図書館 – 玉川上水絵図玉川上水誌
      
    羽村取水堰玉川上水(第3水門)田村分水取水口(天皇皇后両陛下玉川上水ご視察地)玉川上水(熊川分水)玉川上水(熊川水衛所跡)玉川上水(日光橋)玉川上水(拝島分水口、殿ヶ谷分水口)玉川上水(拝島原水補給口)玉川上水(宮沢橋)玉川上水(暗渠)玉川上水(柴崎分水口、砂川分水口)玉川上水(逆サイフォン、残堀川)玉川上水(見影橋と源右衛門分水)玉川上水(旧砂川水衛所跡)小平監視所(旧称:小平水衛所)玉川上水(小川水衛所跡)玉川上水(喜平橋)玉川上水(小金井橋)玉川上水(陣屋橋)玉川上水(境橋・千川上水分水)玉川上水(桜橋・国木田独歩文学碑)玉川上水(品川用水取水口跡)玉川上水(大橋)玉川上水(むらさき橋)玉川上水(萬助橋)玉川上水(牟礼村分水口)玉川上水(どんどん橋・石橋造立供養塔)玉川上水(岩崎橋、烏山分水口跡、北澤分水口跡)玉川上水(浅間橋)玉川上水(玉川上水第三公園)玉川上水(巨大な鋼管)玉川上水[代太橋(代田橋)]玉川上水(ゆずり橋)玉川上水(三字橋)玉川上水(神田上水助水堀)玉川上水(原宿村分水跡)玉川上水(明治の暗渠・モニュメント)玉川上水(千駄ヶ谷橋)跡玉川上水(葵橋)玉川上水(旭橋・石樋モニュメント)玉川上水(御苑北縁の“散歩道”)四ッ谷大木戸、玉川上水水番所跡碑
    麹町13丁目(玉川上水分水)竹町(玉川上水樋管)四ッ谷見附(四ッ谷門・上水掛樋)麹町(玉川上水樋管)半蔵門(玉川上水樋管)代官町通り・江戸城西番所(玉川上水樋管)跡矢来御門・上覧所(玉川上水樋管)跡北桔橋門(玉川上水樋管)田安徳川家上屋敷(玉川上水樋管)跡清水徳川家上屋敷(玉川上水樋管)跡竹橋門跡(玉川上水樋管)御春屋跡(玉川上水樋管)
    玉川上水掛樋見守番所紀伊国坂(玉川上水樋管)赤坂弁慶堀際下水掛樋赤坂田町(玉川上水樋管)・成満寺(時の鐘)跡赤坂田町五丁目(桐畑・玉川上水樋管)溜池(洗い堰・玉川上水樋管)葵坂跡(玉川上水樋管)虎ノ御門外勘定奉行役宅跡(玉川上水樋管)虎ノ門外御用屋敷跡(玉川上水樋管)増上寺・御成門(玉川上水樋管)増上寺(玉川上水樋管)
    虎ノ門(玉川上水樋管)虎ノ門内御用屋敷(玉川上水樋管)跡桜田門(玉川上水樋管)西の丸下歩兵屯所(玉川上水樋管)西丸下御厩(玉川上水樋管)馬場先門、八代州河岸(玉川上水樋管)和田倉門跡(玉川上水樋管)八代洲河岸定火消屋敷跡(「この附近の江戸時代」案内板・玉川上水樋管)伝奏屋敷跡(玉川上水樋管)北町奉行所(玉川上水樋管)跡呉服橋跡案内板(玉川上水樋管)
    上水石桝山下橋跡(玉川上水樋管)八丁堀(与力・同心組屋敷跡の説明板、玉川上水樋管)軍艦操練所跡(講武所・玉川上水樋管)

    [玉川上水(たまがわじょうすい)は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)であり、江戸の六上水の一つである。多摩の羽村から四谷までの全長43kmが1653年に築かれた。また、一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。
    羽村取水堰で多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと分配されていた。水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが、羽村から大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りであった。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もおおむね武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている。
    1722年(享保7年)以降の新田開発によって多くの分水(用水路)が開削されて武蔵野の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献した(代表例、野火止用水千川上水)。
    開削の経緯
    『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両が拠出された。
    幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある。
    羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。当初は日野から取水しようとしたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(みずくらいど; 浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更(「かなしい坂Google Maps」参照)。2度目は福生を取水口としたが岩盤に当たり失敗した。こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用。安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み-」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み-」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立-」を立案した。
    この第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始された。しかし、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという。
    庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。
    なお、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い。安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されている。
    現在の玉川上水は、保存状態・利用状況の違いによって、おおまかに3つの区間に分けて考えることができる。 すなわち、上流から順に、「多摩川からの導水路として今も供用されている区間」、「清流復活事業によって少量の水を流している区間」、「大部分が暗渠化され、水路としても水辺としても利用されていない区間」である。  (wikipedia・玉川上水より)]