マーカーは玉川上水(葵橋)モニュメントです。
「葵橋の記」
[ かつて、この地を玉川上水が流れ、このビルの前に葵橋があった。この橋の名前は、この辺りに紀州徳川家の下屋敷があったことに由来する。
この近辺は、明治十八年の新宿駅開設や、大正後期から昭和初期にかけての京王線、小田急線の開通により、多くの学者や画家・文人達が閑静な環境を慕って住んでいた。葵橋は、玉川上水の織りなす四季の景観の中にとけ込み、多くの人人の心を和ませるとともに親しまれていた。
しかし、この景観も、時の流れとともに進む周辺の都市化に伴って、変容した。昭和四十年淀橋浄水場の移転により、玉川上水がその使命を終え、次第に暗渠化されるに伴い、玉川上水に架けられた葵橋も、その役目を終え、その姿を消した。
いまここに、「葵橋」の由来を記し、記念とするものである 昭和六十二年十月 東京都水道局 (「川そひの路」より)]
[葵橋通りを進むと新宿南口・新宿1丁目交差点より代々木駅に抜ける道にあたる。T字の突き当たりの東京南新宿ビルの壁面に葵橋跡の銘板が残る。往昔、この地に葵橋が架けられていたが、ビル建設にともない撤去された。葵橋は『上水記』には戸田因幡守抱屋敷内橋、とある。この地は、宇都宮藩戸田家の屋敷があったためで、明治3年(1870)の記録にも「戸田邸中土橋」、とある。葵橋となったのは、明治に紀州徳川家が買い受け薬草栽培、紀州庭園と呼ばれた、ため。徳川家、故の葵橋ではあろう。 (「玉川上水散歩そのⅦ:代田橋から四ッ谷大木戸へ – 時空散歩」より)]
[JR新宿駅南口を甲州街道に沿って西へ下った西新宿1丁目交差点付近には京王線の「葵橋駅」(葵橋は玉川上水にかかっていた橋)が大正年間にあったことや、今も甲州街道の南側に平行して「葵通り」があることが当時の名残なのでしょう。
葵橋跡には東京都水道局の建てた碑があり、「葵橋の記」という説明板に「この橋の名前は、この辺りに紀州徳川家下屋敷のあったことに由来する。」とあります。
それを確認する資料が「千駄ヶ谷昔話」に記載されていた昭和初期の町内略図です。現在の甲州街道(国道20号線)・西新宿1丁目交差点の南側には街道に平行して玉川上水が流れていました(現在は蓋をされて道路)。
玉川上水には堰が設けられ、取水口があり、トンネルとなって紀州家の池へ流れ込み、更に池の余り水は、トンネルを潜って下流へと流れていたとあります。
この御屋敷跡はJR東京総合病院(旧鉄道病院)の辺りになります。 (「紀州 in 東京(紀州藩江戸屋敷) – 和歌山社会経済研究所 …」
玉川上水(葵橋)図(「明石橋」右方向に「土橋」が描かれ、「戸田因幡守」と記述されています。スクロールしてご覧ください。「東京都立中央図書館 – 玉川上水絵図 」より。)
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「葵橋跡 – Google Map 画像リンク」「葵橋の記 – Google Map 画像リンク」
カメラ西南西方向・葵通りが玉川上水跡で、道路両サイドに葵橋のモニュメントが設置されています。また、カメラ東方向ビル通路壁に「葵橋の記」が設置されています。