イギリス大使館(七日市藩前田家・大和新庄藩永井家・七戸藩南部家各上屋敷跡)

マーカーはイギリス大使館です。

七日市藩前田家関連リンク – 七日市藩前田家下屋敷跡

大和新庄藩永井家関連リンク – 大和新庄藩(櫛羅藩)永井家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP711・コマ番号399/553から櫛羅藩(大和新庄藩)の変遷について記載されています。P713・コマ番号400/553「上屋敷 麹町一丁目」がこの地になります。

イギリス大使館
[1859年7月6日(安政6年6月7日)、ラザフォード・オールコックにより高輪東禅寺に英国総領事館が開設された。オールコックの公使昇進により、領事館は公使館となった。しかしながら、2度の東禅寺事件により公使館員が殺傷されたため、公使館は横浜に移った。その後江戸幕府により品川御殿山に公使館が建設されていたが、完成直前の1863年1月31日(文久2年12月24日)に高杉晋作らによる焼き討ちにあってしまい(英国公使館焼き討ち事件)、使用されることはなかった。しかし、公使館が横浜にあることは不便であるため、当時の公使ハリー・パークスは、1866年末(慶応2年)に公使館を横浜から江戸泉岳寺前に移転したが、これはあくまで仮のものであった。明治維新後、多くの大名屋敷が空になった。このため、1869年1月(明治元年11月または12月)頃、パークスは公使館を三田上野国沼田藩下屋敷跡に移した。さらに、パークスは恒久的な公使館用地を求めて、江戸城近くの複数の用地を物色した結果、1872年5月(明治5年)、七戸藩(南部丹波守)上屋敷大和新庄藩(櫛羅藩・永井信濃守)上屋敷、七日市藩(前田丹後守)上屋敷、および旗本水野兵部の屋敷跡を合わせた12306坪(明治17年の本契約では10833坪)をほぼ永久に貸与されることとなった。その後現在にいたるまで、この場所が英国大使館(1905年に公使館から大使館に昇格)の所在地となっている。一番町の公使館は、銀座煉瓦街などの設計で知られるトーマス・ウォータースの設計によるによる赤レンガ作りのもので、1874年12月に竣工した。しかしながらこの初代の建物は、1923年(大正12年)の関東大震災で完全に倒壊した。現在の建物は1929年(昭和4年)に建てられたものである(英国工務省設計)。また、1987年(昭和62年)、新館と呼ばれる二番目のオフィス用建物が完成した。太平洋戦争の勃発と共に、日英の国交は断絶し、大使館も閉鎖された。終戦直後、大使館は英国海軍の管轄下におかれ軍艦扱いされた。艦名はリターン号(H.M.S.Return)であった。1946年(昭和21年)6月、大使館は「駐日英国連絡公館」として通常の業務に戻り、1952年(昭和27年)4月のサンフランシスコ講和条約の締結により、大使館の名称に戻った。  (wikipedia・駐日英国大使館より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸番町絵図(嘉永新刻・1848年 – 1855年)」[絵図右上・南部丹波守(七戸藩南部家上屋敷)から前田丹後守(七日市藩前田)までがイギリス大使館になった。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 三」[コマ番号153/186、154/186の当時(文久元年・1861年)之形に七日市藩前田家・大和新庄藩永井家・七戸藩南部家各上屋敷、旗本水野兵部屋敷が描かれています。]

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区代官町及一番町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図左下に英国公使館が描かれています。)

カメラ西北西方向がイギリス大使館です。

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