市ヶ谷見附

マーカーは市ヶ谷橋の案内板です。

市ヶ谷見附
[JR市ケ谷駅前付近に存在した。別名「桜の御門」と呼ばれ、春には桜が人々の目を楽しませたという。現在は、バラバラになった組石を数個遺すのみとなっている。地下駅コンコース内には、濠の石組みが一部再現されている。  (wikipedia・外濠_(東京都)より)]

市ヶ谷橋の案内板
[この橋を市ヶ谷橋橋といいます。市ヶ谷門に架かる見附橋であります。門は寛永十三年(一六三六)森長継の担当で建造され、市ヶ谷への出口であったので門の名となり、橋の名ともなったのでしょう。また門は「市ヶ谷」「一ヶ谷口」ともかかれています。市ヶ谷の名は、市ヶ谷孫四郎の領地であったからとも、四谷第一の谷、または市が立ったので市買だともいわれています。四谷、牛込をはさんで市ヶ谷付近の濠は、同じ高さなので濠の幅を広くして敵に備えたといいます。このあたりは昔は桜が多く、門は「桜門」といわれていました。現在も橋をはさんで咲く土手の桜は有名です。門は明治四年(一八七一)撤去されました。現在の橋は昭和二年に架設されたものです。長さ三六・四メートル、幅十五・六メートル。コンクリート造り。
   昭和五十一年三月    千代田区教育委員会(平成二十一年三月補修)  (「市ヶ谷橋 – Monumento(モニュメント) 」より]

[市ヶ谷御門橋台の石垣石
 この石垣石は、江戸城外堀跡の市ヶ谷御門橋台に築かれていた石垣の一部です。市ヶ谷御門の枡形は現存しておりませんが、橋台の石垣は、現在もその一部が外堀通りの下に保存されています。この石垣石に刻まれている刻印は、江戸時代初期にお手伝普請で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられています。寛永13年(1636)に開削工事が行われた赤坂から四谷・市ヶ谷・牛込橋にいたる掘割や土手の遺構、寛永16年(1639)修築された外郭門の石垣などが、昭和31年「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されました。なお、平成7年3月に営団地下鉄南北線の市ヶ谷駅構内に開設された「江戸歴史散歩コーナー」では、平成元年から八年にわたって発掘調査された江戸城外堀跡関連遺跡の発掘成果の一部を展示公開しております。  千代田区教育委員会  (「市ヶ谷御門橋台の石垣石 – Monumento(モニュメント)」より)]

市ケ谷御門資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城見附図 2巻. [2]」(コマ番号48-50/68・市ヶ谷御門門)
(拡大図)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 御江戸番町絵図(嘉永新刻)」(絵図下中央付近に「市ヶ谷御門」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔〔江戸切絵図〕. 市ヶ谷牛込絵図(嘉永四年・1851年)」(絵図左上に「市ヶ谷御門」が描かれています。)

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麹町区番町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図中央上に四谷門が描かれています。)

(幕末の市ヶ谷門・wikipedia-photo)

江戸後期、市ヶ谷見門橋から尾張藩上屋敷方向の写真です。

江戸城 市ヶ谷見附跡 – Google Map 画像リンク」、「市ヶ谷御門橋台の石垣石の碑 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は市ヶ谷橋南東詰めで、カメラ北北西方向高欄右に市ヶ谷橋の案内板があります。

カメラ西北西方向に市ヶ谷御門橋台の石垣石の案内板が設置されています。

市ヶ谷御門橋台の石垣石の案内板前のカメラです。

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