丸亀藩京極家下屋敷跡

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP735・コマ番号411/553から丸亀藩屋敷の変遷について記載されています。P737・コマ番号412/553「抱屋敷 白金今里村 芝区白金三光町」がこの地になります。

京極朗徹
[京極 朗徹(きょうごく あきゆき)は、文政11年(1828年)9月17日、讃岐国丸亀藩5代藩主京極高中の弟・京極高教の子の京極高周(右近)の五男として丸亀城で生まれる。天保15年(1844年)2月23日に第6代藩主京極高朗の養子となり、2月25日には婿養子に迎えられた。嘉永2年(1849年)12月16日、従五位下・佐渡守に叙位・任官する。嘉永3年(1850年)3月7日、高朗が隠居したため、家督を継いだ。
財政再建のため、奢侈を戒めて倹約令を出し、産業奨励、輸入の制限、不正の厳罰化、上納米の督促、銀札の一部発行停止などを行なっている。幕末の動乱の中では尊王派として行動し、御所警備のためにたびたび出兵した。慶応4年(明治元年、1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、丸亀の隣藩の高松藩が朝敵に指名されると、新政府の命令で土佐藩と共に高松藩の追討にあたったが、高松藩主松平頼聰から新政府に対して赦免を嘆願してもらうように仲介を依頼され、新政府に取り次いで頼聰を赦免させている。
明治2年(1869年)2月に諸藩に先駆けて版籍奉還を願い出て、3月19日に丸亀知藩事に任じられる。その後、藩士の知行削減などの改革を行なった。明治4年(1871年)3月、諸藩に先駆けて廃藩置県を願い出て、4月10日に丸亀藩は廃藩となって丸亀県となり、朗徹は丸亀県知事に任じられた。しかし4ヵ月後の8月15日に県知事を辞職して東京へ移った。
なお、明治元年10月に先代の高朗が預かっていた元江戸町奉行鳥居耀蔵が赦免された。  (wikipedia・京極朗徹より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図四つ切右下・瑞聖寺右に京極佐渡守(京極朗徹)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [4]拾六中(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/5・絵図四つ切右上・瑞聖寺左方向に京極佐渡守(京極朗徹)下屋敷が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切左上・白金三光町295番-304番が丸亀藩京極家下屋敷跡と思われます。)

カメラ北北西方向が丸亀藩京極家下屋敷跡になります。