八戸藩南部家抱屋敷跡(玉名池跡)

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八戸藩南部家抱屋敷(玉名池跡)
[後に八芳園となる土地にかかわる川や池といった水系について、改めて絵図を見てみますと、「奥田主馬」「嶋津式部」両家の敷地の東端を流れている小川がありますが、この川は玉名川(たまながわ)と呼ばれていました。

玉縄台の斜面にあった「南部遠江守抱屋敷」(陸奥八戸藩二万石)の屋敷内にあった玉名池(玉縄池)から流れ出していた小川で、両家の敷地沿いから覚林寺脇を通り、その後屈曲を繰り返しながら北へ流れ、古川(渋谷川の下流)に注いでいました。
 しかし水源と思われた玉名池(南部邸)にも、さらに流れ込んでいる水流が描かれていて、それは白金台に現在も残る三田用水の遺構の近くから分かれた三田用水の分流のようです。つまり玉名池は、大名屋敷の庭園の池であると同時に、三田用水の水をいったん貯めておく貯水池、あるいは調整池の役割を持っていたのかもしれません。
ところで、「南部遠江守抱屋敷」の玉名池については、後年すぐ近くに移転してきた明治学院の歴史を記した『明治学院五十年史』(明治学院、昭和2年)の中に触れている文章があります。「(略)今里の高臺にかけては、舊南部藩(注)の鴨池屋敷で、天を摩する樫や欅の大木が欝然と立ち並んで居て、其の奥のほうには何時出来たとも知られぬ可成りに廣い池があった。」と、明治20年(1887)ころの様子を伝えています。広い池には数多くの鴨が集まったところから「鴨池屋敷」と呼ばれていたようです。大木の茂る樹林があり、広い池があったのであれば、それなりの庭園が造られていたことをうかがわせますが、それを伝えている史料は知られていません。明治維新の後に上地されたままであったとすれば、庭園はかなり荒廃して樹木も伸び放題であったものと思われます。  (「<白金台の街と庭園-36> – 人と植物のつくる環境をデザイン …」より)]

[玉名川は、港区白金台2丁目1~3近辺にあった「玉名の池」(玉縄の池とも)から流れ出し古川に注いでいた川です。玉名の池は山内遠江守下屋敷(のち南部遠江守下屋敷)の屋敷内にあり、もともとは湧水池であったようですが、のちにはそばの尾根上を通過している三田用水を字久留島(白金台3ー7近辺)で分水し、引き入れていました。
玉名の池は明治時代には岡崎氏邸宅の鴨池となりました。江戸後期の記録では、池は埋まってしまい窪地となっていたような記述もありますが、湧水池が一度干上がったのち、三田用水を引いて復活させたのでしょうか。芝区誌には、
「欝然たる大樹の間にある鏡のやうな池には数知れぬ鴨の群が集まってきたのである」
と記されています。  (「【5−7】玉名川(1)三田用水分水地点から覚林寺まで」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図中下方向・瑞聖寺左下に南部遠江守(南部信順)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図中央右方向に「南部遠江守抱屋敷」が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第十弐 芝区全図 – 特別区協議会」(地図中央左方・白金今里町、明治学院の上の水路(玉名川)上が薩摩藩島津家下屋敷跡になります。そこの左に玉名池が描かれています。そこが八戸藩南部家抱屋敷跡になります。)

カメラ位置は白金台二丁目2番地地先で、この付近が八戸藩南部家抱屋敷跡(玉名池跡)の中心になります。