マーカーは大溝藩分部家下屋敷跡です。
関連リンク – 大溝藩分部家上屋敷跡(新橋駅)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP476・コマ番号282/553から大溝藩屋敷の変遷について記載されています。P477・コマ番号282/553「下屋敷 白金 芝区三光町」がこの地になります。
分部光信
[分部 光信(わけべ みつのぶ)は、江戸時代前期の武将・大名。伊勢国上野藩2代藩主。近江国大溝藩初代藩主。分部家2代。官位は従五位下・左京亮。
天正19年(1591年)、伊勢の国人・長野工藤氏の一族・長野正勝(長野氏ではなく他家からの養子)の子として誕生。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には分部氏本家によって同じ東軍に属した富田信高への人質として差し出された。慶長6年(1601年)から徳川氏に仕える。同年に先代藩主・分部光嘉が死去したが、光嘉の嫡男の光勝は慶長4年(1599年)に死去していたため、光嘉の娘婿であった長野正勝の子で、即ち光嘉の外孫にあたる光信が養嗣子として跡を継ぐ事となった。光信は二条城や駿府城、大坂城、佐和山城の普請で功を挙げた。慶長9年(1604年)6月22日には叙任している。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では本多忠政に属して功を挙げ、翌慶長20年(1615年)の夏の陣でも功を挙げた。元和5年(1619年)8月に徳川頼宣が紀伊国に入ると、伊勢の分部家の領地である上野藩領も全て紀伊徳川家領に編入されることとなり、光信は近江大溝に転封となった。
寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛に従う。寛永10年(1633年)、幕府の諸国巡見使に起用され、常陸国、陸奥国、出羽国、さらに蝦夷島の松前に赴いた。 寛永11年(1634年)、織田信長によって焼き討ちされていた比叡山延暦寺の復興奉行を務めた。藩政では領民に金子を分配するなど、善政を敷いたと言われている。
寛永19年(1642年)5月に病に倒れ、翌年2月22日に死去。享年53。
家督は三男・嘉治が継いだ。 (wikipedia・分部光信より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [4]拾六中(弘化三年・1846年)」(コマ番号2/5・絵図四つ切右上に分部若狭守(分部光貞)下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図四つ切右下・松平十郎磨右下に分部若狭守(分部光貞)下屋敷が描かれています。)
カメラ位置は白金四丁目6、7番地先交差点でこの付近一帯が大溝藩分部家下屋敷跡になると思います。