宇土藩細川家下屋敷跡

マーカーは宇土藩細川家下屋敷跡です。

関連リンク – 大村藩大村家上屋敷・宇土藩細川家上屋敷跡(国立国会図書館東京本館)宇土藩細川家中屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP682・コマ番号385/553から宇土藩屋敷の変遷について記載されています。P684・コマ番号386/553「下屋敷 二本榎猿町」がこの地になります。

細川立孝
[細川 立孝(ほそかわ たつたか)は、元和元年(1615年)細川忠興の四男(庶子)として誕生。始め僧籍に入り立充(りゅういん)と名乗った。
晩年の父忠興に溺愛され、兄忠利熊本藩に移封されると、寛永9年12月(1633年)に隠居の父忠興と共に八代城に入城した。忠興は北の丸に、立孝は本丸に住した。また、還俗して立孝(たつたか、「孝」は祖父・藤孝の1字)と名乗る。寛永11年12月(1635年)、五条為適の娘・鶴と八代にて婚儀を執り行う。寛永15年(1638年)1月4日に島原の乱に出陣する。寛永16年(1639年)、将軍に拝謁後、還俗した。忠興は自分の隠居料の八代7万石を立孝に与えようとしていたが、正保2年(1645年)に江戸表で没し、同年に後を追うように立孝も没した。翌年、遺児・宮松(行孝)を宇土に移し、立孝の内分領の宇土3万石が与えられ、宇土藩が立藩した。
兄の忠利の子孫である肥後細川家の嫡流は細川治年で途絶え、立孝の子孫が宇土藩から熊本藩に入って本家を継いだため、熊本藩9代藩主細川斉茲から現在の当主細川護熙(元首相)までの歴代当主は立孝の子孫である。  (wikipedia・細川立孝より)]

細川行孝
[細川 行孝(ほそかわ ゆきたか)は、肥後宇土藩の初代藩主。細川立孝の長男。
寛永14年(1637年)3月4日に熊本八代で生まれた。八代城主だった祖父・細川忠興は、熊本藩主・細川忠利たちの反対を押し切り、自分の隠居所である八代城と隠居領である八代領9万5000石を、可愛がっていた行孝の父・立孝(立允ともいう)に継がせ、八代支藩の設立を考えていた。しかし正保2年(1645年)閏5月に立孝が死去、忠興も同年末に死去したため、この話は一旦立ち消えとなり、八代は細川本藩領、八代城代を本藩家老の松井家が代々勤めることとなった。
忠利の跡を継いだ細川光尚は、八代の代わりに宇土益城郡内に3万石の領地を設け、立孝嫡男の行孝に授けた。ここに支藩としての宇土藩が成立した。
行孝の藩政における功績として大きなものは、元禄3年(1690年)に上水道(轟泉水道)を設置したことである。これは当時、宇土市街の水質が悪かったためであった。同年6月4日、54歳で死去し、跡を三男の有孝が継いだ。
土芥寇讎記』において、藩政は熊本本藩に準じた指導下にあったとされ、行孝は領民を憐れみも貪りもしなかった、と記されている。さらに行孝自身については、悠然としかし陰気であり、和歌道に夢中であるが、歌道は余力でやるべきことであり、つまり政治を行うべき、と評されている。  (wikipedia・細川行孝より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下(弘化三年・1846年)」(コマ番号4/5・絵図中央右方向、今里村左に細川豊前守(細川行芬)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 目黒白金辺図(嘉永七年・1854年)」(絵図中央左下方向に今里村下に細川豊前守(細川立則)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は白金児童遊園(猿町公園)南側で、カメラ位置周辺が宇土藩細川家下屋敷跡になると思います。